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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

研究会に参加しました2

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日は,森敏生さんの科研の研究会の一日目の様子をお伝えしました。

今日は2日目の様子です。

では,どうぞ。

 

朝は,6時に起きる。

着替えて走りに行く。

実は,水,木と走っていないのだ。

忙しくて走るヒマもないというわけでもないが,雨が降ったりして,タイミングを逃したこともある。

 

名古屋駅の新幹線口の方のホテルだったのだが,土地勘はない。

曇っているが,雨は降っていない。

 

とりあえず,駅から遠くに向かって走ることにした。

大通りを走ると,信号に捕まると長い休憩が待っている。

だから,小さい道を行くことに。

久しぶりに走ったが,足は軽いわけでも重いわけでもない。

走っていくうちにほぐれていくのが分かった。

 

僕は南の方に走っていったつもりだが,どっちかいうと西の方だったのだろうか。

5キロぐらい走ろうと思ってまっすぐ行くが,2キロすぎで左手の方に大きな鳥居が見えたので,そこまで行くことにした。

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ホテルに戻って,5.2キロぐらい。

気持ち良く走れた。

シャワーを浴びて,朝食のために下に降りると,外は雨だった。

降られずに走れたのはラッキーだった。

 

準備をして,出かけていく。

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昨日は分からなかったが,なんと「大名古屋ビルヂング」が建て増しをしていた。

 

今日の最初は森さん。

森さんの報告は,体育授業における活動を「スポーツ活動システム」とみて,そこにおける矛盾の解決過程がどのように行われるのかについての報告だった。

この活動システムは,エンゲストロームの活動理論であり,それを体育授業における子どもの活動で考えるというものであった。

 

この報告は,取り上げた対象が僕らになじみのあるものだったので余計にそう感じたのであろうが,とにかく刺激的だった。

何が?

それはいえません。

なにしろ,この報告も9月の学会の報告のために出されたものだからだ。

 

そして,僕の報告。

僕は,自分の『体育科教育』での連載の今後の計画と,困っていることについて報告した。

この連載は,「授業研究に活かす実践記録 書く・読む・深める」というタイトルなのだが,基本的な僕のスタンスは,授業研究における実践記録の位置の変化であった。

つまり,歴史研究を中心に位置づけている。

それで,9月号が先日出たのだが,それが佐々木賢太郎さんの実践記録のモデルとなった実践記録について,バルトのテキスト論を簡単に使いながら示した。

 

10月号は,1959年から1962年頃までに,体育科教育界に実践記録が浸透していく経緯を示してみた。

子どもやグループ学習の調査研究などから,授業研究へとシフトしていくわけだが,その最初に実践記録の検討が位置付いていた(というとやや大げさなのだが)。

 

しかし,1961~2年頃には,その位置づけが変化していく。

これが,11月号の中味。

1958年の指導要領の実施がこの時期になり,教育の官民の対立が激しくなっていくと,教科の民間団体は,科学的な方法で,科学的な教育内容や教材を開発していく。

さらに,授業研究でもいわゆる実証的な経験科学の方法が中心になっていく。

これにより,生活綴方がまず位置づけを後退させ,教師の生活記録である実践記録も位置づけを変化させる。

位置づけだけではなく,内容もやや変形していく。

 

10月11月号は,そんなに困ってはいない。

問題は,12月号の中味であり,1,2,3月号で終わるのだが,どうやって終わらせるのかである。

12月号は,どうしてもこだわらざるを得ないのであるが,哲学,社会学,教育社会学,心理学,そして教育学における「知」のあり方の変化の様子を描き出すことを課題としている。

 

これまでもブログで書いてきたように,哲学における形而上学の終焉,実在の学から関係の学へ,言語論的転回と構造主義,ここまで,フッサールフロイトソシュール,そしてヴィトゲンシュタインなどが登場した。

さらに,このヴィトゲンシュタイン言語ゲームという考え方が,知の考え方を大きく変えた契機の1つとなったといって良い。

もちろん,ヴィゴツキーも形は違うが一役買っている。

 

言語ゲームは,まさに社会学におけるその後の解釈的アプローチと構造主義(ミクロとマクロの関係)を備えた研究を用意する。

それが,エスノメソドロジーであり,シンボリック相互作用であったりするのだが,これによって新しい教育社会学が出てきたりする。

それが,1960年代の実証主義的な経験科学(規範的アプローチ)の冷たさに対するアンチテーゼとなる。

しかし,70年代以降のそういった諸学問の動きに呼応せずに,規範的アプローチにすがってきた日本の授業研究に紫電一閃・・・・。

 

こうして,解釈的アプローチあるいは,心理学でいうところのナラティヴ・ターンに入る。

この説明をして,実践記録の話をして,果たして終わらせることができるのだろうか。

という悩み事を打ち明けたのであった。

 

帰りに,名古屋駅で高級なきしめんを食べて,新幹線に乗って京都へ。

残念ながら,奈良ではなく大学へ向かったのであった。

キャンプの準備をしている学生たちにつきあうためだ。

 

次はモードをキャンプに変えなければなりません。

しかも,台風が予想されています。

 

 

 

 

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