体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

昔話「末吉小学校」を読む3

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,「昔話『末吉小学校』」の続きを読みます。

「人は物事をどういう風に分かっていくのでしょう」か。

この続きです。

では,どうぞ。

 

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写真は,琵琶湖の傍の風車村の風車(本文とは例によって関係なし)。

 

民研で勉強をする中で,学校全体が驚いたのが「ドル平泳法」であったという。

ドル平については,つい先日も書いたが,さすがというのか。

「泳げない先生が言葉を積み重ねて,泳がせてしまう。その論理性です。泳ぐとはどういうことか,泳ぐという仕事のために体をどうするか,呼吸という技をどう書く得するか,それがはっきりしている。逆に言えば何に引っかかって泳げないかが見えるということです」(3頁)。

 

「1年生で泳げる。4年生で平泳ぎ,クロール,バタフライ,バックが泳げる。高学年は遠泳というふうにみんなの技術になっていきました。

体育は男は野球,女はドッジボールといった体育から,教えるという時代に入ったというべきでしょう。

ドル平泳法は教師に自信を与えました。算数のように水泳が教えられるのですから。それからサッカー,バスケットボール,マット運動,リズム表現と範囲が広がっていきました」(3頁)。

 

この部分はとても大切だと思う。

昔も運動技術の「分析と総合」が大切だといわれたが,「切り取ってつなげる」ことができれば=論理をもてば,泳げない人でも泳がせることができるということだ。

もちろん,指導をしていく中で,よくわからない部分が出てくるだろうし,それを乗り越えていく必要があるのだろう。

 

しかし,体育の授業で泳がせることができないのは(スイミングもだが),泳ぎの分析と総合をせずに,「泳ぐとはこういうもんだ」という指導が繰り返されるからだ。

こんなものは,一旦みんなのものになってしまえば,日本中の子どもが泳げるようになるのに,なかなかそうならないのは・・・,やむを得ない理由があったのだろうね。

 

このことは,部活動でも同じだと思う。

その競技のことをよく知っていて一流の指導者も多いのだろうが,多くは「こういうもんだ」という指導をしているのだろう。

もったいないね。

 

菊池さんは,自分は「あまりスポーツを好きではない」といい,それでも教えなければならなかったわけで,どうしたかというと・・・

「そのためには,教材の仕組みをわかる必要があります.どういう技や仕組みが組み合わさって運動を成り立たせているかです。これが自分でやらないからなお分からない」。

だから,徹底的にデータをとるようにしたという。

 

サッカーだったら,最初はゲームを考えて,キーパーを含めて5人対5人と仮説を立てる。

「見ている子にパスコースを読みとってもらいたい。一人一人がボールに触る回数を数えてほしいとか,次のゲームを組み立てる資料がほしい」ので,条件を変えて授業をしていく。

 

「技術の系統は論理的エッセンスだから,子どもでも大人でも同じはず。しかし1年生と6年生では授業としては違うはず。系統は乾物。水に戻す。戻し具合は授業の度合いによる」。

 

これいいね。

今の体育同志会でも,ある分科会では,指導の系統の問題と授業の教え方の問題が混同されて議論されているようなところがある。

子どもたちのそれまでの学習や,条件などが違えば,同じ学年でも「戻し具合は授業の度合いによる」わけで,そこを丁寧に読みとって議論しないと,まさにこれ以外に認めないという指導法の追求になってしまう。

 

サッカーの話に戻せば,ここで昨日も紹介した堀江邦昭さんの「子どもはどのように物事を分かっていくのか」(『たのスポ』2015年7.8月号)につながっていく。

堀江さんは,サッカーの心電図(スコア表)が生まれるまでを「たのスポ」に書かれている。

当たり前だが,同じ人物が登場する。

よく考えてみれば,なぜか今から40年以上も前の話が,この7.8月に堀江さんと菊池さんが書かれて,僕のところに届けられたのだろうか。

ここに何か意味があるのだろうかと一生懸命考えるのだ。

 

なお,研究局の中期的な研究課題の第一番目にあげているのが,「うまくなっていく事実を捉える方法を明らかにする」ことなのだ。

これはまさに,子どものわかり方や出来具合やその変化を取り出す方法のことであり,心電図や手形足形,田植えラインやスピード曲線などを念頭においている。

その最初の試みが,心電図だったわけであり,それに学べといわれているような気がしてならない。

 

堀江さんの文章では,「子どもの認識に訴え,実技練習でどのぐらい学習したら,学習した『2対0』が,ゲームの中にどのぐらい現れるのか,検証する必要がある」と課題が提起されたという。

そのもとになったのが,タイルを使って十進法を教える数教協の考え方だった。

これもおもしろいね。

ドル平は,結果としてかもしれないが,水道方式と同じ考え方でつくられている。

心電図は,具体と抽象を教えるのに,半具体物(タイル)で教えるという考え方に学んでいる。

 

それで,一瞬にして消えてしまう子どもの運動経過を表す工夫の結果が心電図だったのだ。

このときは,記録の黎明期だったわけで,試行錯誤を重ねて,子どもでもとることができるような記録にまですることができた。

単に誰が何回触ったかだけではなく,これによって二人のコンビネーションがどのぐらい出てくるのか,うまくなるということはその割合がどうなることをいうのかというところを見ようとしていたのだった。

それが今では,堀江なつ子さんや高崎優也さんの原稿(ともに『たのスポ』7.8月合併号)に書かれている。

 

堀江さんは,他の教科の教材でも同じように明らかにしようとしたと具体的に書いている。

菊池さんも,体育での別の工夫を書いている。

「バスケットボールを1年生がやるとする。リングの直径をいくらにするか。3メートル離れたところから壁にも買って一人何回か投げて貰う。あたったところに印をつけていくと約70センチの園内にショットの50%が入る。

この1年生なら70センチのゴールをつくってあげればいい。ネットの下をくくって,玉入れにする。ボールがたまれば点数が見える。早期舞えれば材料を集めてきてゴールをつくる」(4頁)。

 

これは,先日,愛知の堤さんに聞いたのだが,バスケットボールではないが,ボール運動の教材のようだ。

 

これも,「リアリズム一元論」の考え方に近いのだと思う。

単に入りやすくするだけではなく,子どものもつ論理性や生活性に屈折させてゴールの大きさを決めていくわけだ。

バスケットボールらしいバスケを子どもにさせるための工夫であろう。

 

さて,今日はここまでにしておきます。

 

 

 

 

 

 

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