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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

エスノメソドロジーについて4 -「精神医療批判」を読む1

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,これまでに読んできた『エスノメソドロジーの現実』(世界思想社,1992)の中から,山田富秋さんの「精神医療批判のエスノメソドロジー」を読みます。

これが日本に登場するのには,15年ばかり早かったのではないかと思ったりします。

 

この論文の影響がどうだったのかはわからないのですが,とても勉強になりました。

今日一日では語り尽くせないかもしれません。

では,どうぞ。

 

この話は,山田富秋さんという人が,イタリアのバザーリアという人の精神病院での実践(と編者による解説など)を読んで,この実践の持つ意味を解釈して,サックスというエスノメソドロジーの研究者の方法や,フーコーの知見を援用して,自分なりにいいたいことを言っている話だ。

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つまり,この話は山田さんの実践や研究ではない。

だから,良くないというのではなく,バザーリアの実践を中心に山田さんが書いたことを,僕を介在させてブログの記事にしているという3重構造になっている

とはいっても,竹内常一さんの仕事をこのブログでも何度も紹介したが,それも,ある方の実践記録を読んだ竹内さんの分析や再物語化を,僕が紹介するという形であり,同じことなのだ。

 

で,何で僕がこれを紹介しようと思ったのかについてであるが,むしろ何でこれがよいと思ったのかを書きながら,剥がしとってみたいと思ったからだ。

ただ,どこから手をつけていいのかが難しいところ。

 

まずは,「カテゴリー化と権力作用」について。

僕らは,日常生活を送るときには,自分の考えていることは,割と当たり前だと思っていることが多い。

それは,僕らの周りも同じように考えていると思っているからだ。

逆に言えば,同じように考えていると思っている人たちとつきあっているということなのだ。

しかし,それは,当たり前ではない考え方をする人たちに出会うときに,相対化される。

こういう,当たり前の考え方,自動的になされる判断や推論の形式をハーヴェイ・サックスは,「カテゴリー化」という。

 

この「カテゴリー化」は,われわれがコミュニティーを作っていく上で必要なものではあるが,これが問題となるのは,「当該文化のイデオロギーを知らず知らずのうちにその成員に浸透させていくような『権力作用』が働いている」ということである。

これは,僕にもよくわかる。

 

しかし,これだけを読むと,具体がわからないので,ここでバザーリアの話に入りたい。

バザーリアは大学の精神神経研究所に勤めながら,現象学を学び,学究生活を送っていたが,あるとき請われてイタリアのゴリツィアの精神病院長になった。

そのときに,バザーリアが見たものは,「人間の尊厳を虐待し,サディズムと言ってもいいほどの熾烈さでもって被収容者に体系的に屈辱を与え,監禁する場所」であり,それが精神病院だった。

 

何となくわかると思うが,先に述べた「カテゴリー化」は,この精神病院で働く人たちにとっての当たり前の判断・推論であり,それがつまり,「被収容者への虐待」なのである。

バザーリアは現象学を学んでいたこともあり,こういった「カテゴリー化」を,現象学的還元によってエポケー(判断中止)しようとする。

 

マジョリティがマイノリティーに行使する権力作用は,彼らには当たり前すぎて,普段は意識に上る,つまり,反省的に主題化されることはない。

アメリカのある州では,白人警官が罪のない黒人を撃ち殺すだとか,暴力をふるうことが当たり前に行われているのは,まさにその証左なのだろう。

白人-黒人にもある支配-被支配の関係が,警官-一般市民という支配-被支配の関係にかぶせられることで,強化されることは想像に難くない。

 

しかし,カテゴリー化を目に見えるようにするにはどうしたらいいか。

これが,「見てるのに見えないものを取り出す」エスノメソドロジーの方法の探求であり,バザーリアが行う実践である。

 

サックスによれば,正常-異常,白人-黒人,男性-女性,大人-子どもという二項対立は,支配-被支配の非対称な関係である。

支配者のカテゴリー化では,弱者が被支配の位置にとどまるのは,「弱者の努力が足りないから自立できない」というものである。

 

強い立場の人が,弱い立場の人に向かっていう,今でいう自己責任というものに他ならない。

そして,その自立というのは,「支配的な文化によって定義された仕方に従うことによってのみ自立するのである」(これはサックスの言葉,74頁)。

ここに自立を難しくしている構造的な罠のようなものがある。

 

これは,湯浅誠さんが『反貧困』(岩波新書)の中で,九州のある役所では,生活保護の申請があってもなかなか許可を下りさせようとしなかったというのと似ている。

その役所では,それによってこれだけお金を浮かしたとかを誇っていたという。

あるいは,障害者自立支援法というのもまさにそうだ。

自己責任というイデオロギーを,特に弱者に適用することで,負け組は淘汰されるのが当たり前だというカテゴリー化を強化していくことになる。

その際に有効に働くのが,社会ダーウィニズムだ。

 

これに抵抗するためには,支配的文化によるアイデンティティ管理への異議申し立てが必要になる。

 

その前に,精神病院のスタッフ-病者という支配-被支配の関係がどのようにしてできていくのかを見ておこう。

これは,教師-子どもの関係,とりわけ,教師から見て逸脱行動をする子どもや,障害のある子どもとの関係に置き換えることができると思うからだ。

 

精神病院の特徴は,監獄といっしょで,外の世界と隔離されているところに特徴がある。

彼らは,分裂症,躁鬱病,ヒステリーというレッテルを貼られ,そのようなものとして生活させられ,個人のアイデンティティは抑圧される。

それは,彼らが生まれつき劣っていると信じられているからであり,一般の人たちと比べて非合理的な逸脱の表現と見られるのだ。

 

山田さんは,バザーリアの視点をゴフマンの「全制的施設」という概念で説明する。

つまり,僕たちが自分自身を価値ある存在と考えるのは,自分の身につける衣服,髪型や化粧,友人関係,職業,趣味など,自己イメージを保証し,自分が操作できる環境から成り立っていると考えるからだ。

しかし,精神病院では,自己アイデンティティを剥脱する形で病者の自己を再編成する。

それによって,管理を達成する。

 

そして,自己を無化させられると同時に,スタッフよりも社会的に低い地位にあることを示す動作や姿勢を取るように強制される。

たばこを吸う,水を飲む,電話をかける際に,スタッフに頼み込んで許可を求めなければならないということだ。

だから,同時にスタッフの態度もまた横柄になる。

 

これは,病院で患者のことを「患者さま」と呼んでへりくだったら,患者の態度が横柄になるのと同じことである。

だから,こういった関係は難しいのだろう。

教師だって,子どもと対等に振る舞っていても,子どもを評価するという非対称的な関係なのだ。

 

この精神病院で行われていることは,心的・物理的暴力を正当化し,そういった秩序を維持することが目的であり,医療というのはそれを覆い隠すためのアリバイにすぎなくなる。

ここで,監獄と精神病院の違いについて語られる。

いうまでもなく監獄は,過去に罪を犯した者が収容される。

それに対して,精神病院は,「これから彼らが犯すかもしれないことへの幻影」によって収容されていることになる。

つまり,「彼らは危険である」という認識が,精神病院で行われる管理のそこに働いているのである。

 

長くなったので,続きはまた。

 

 

 

 

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