体育同志会の研究についての覚え書き5-ドル平泳法成り立ちの原理
こんにちは。石田智巳です。
今日は,しばらくぶりですが,体育同志会の研究についてです。
ドル平泳法について書いてみたいと思います。
といっても,ドル平泳法そのものの歴史とか,ドル平の位置づけではなくて,昨年のみやぎの中間研究集会のときに,少し触れたものの,その後棚上げにしてしまったことについてです。
それは,中内敏夫さんの「リアリズム一元論」についてです。
では,どうぞ。
体育同志会は,1960年頃から技術指導の考え方(最初は,中間項とか中間項理論とかいった)を固めていく。
これに,教育内容の現代化運動の流れから,科学の方法を取り入れていく。
一番有名なのは,高山(現永井)博さんの論文「現代科学の成果を活用するとは」であろう。
そこでは,科学的な技術ではなく,技術指導を科学化するための手続きが語られる。
その際に,「端的にいえば技術指導に於ける『水道方式』が成り立ちはしないか」と述べる。
これは,普遍的で一般的な技術という意味で,運動の学習においても,水道方式の水源地(典型)にあたる何かを最初に学ぶということである。
*なお,この原稿を書いたのは,7月のことです。その後,みのお大会で永井さんからドル平誕生秘話を聞いたのですが,途中で書き足すと,書いている私が二人になるので7月の時点での話のままにします。
その何かが水泳においてはドル平泳法となったのであろう。
泳ぐことを,手と足と呼吸と姿勢制御などどの泳法にも含まれる要素を取り出し,呼吸を中心にまとめて,再構成した泳法である。
これを泳法とするならば,新しい文化の創出だと言えるかもしれない。
中村敏雄さんは,近代泳法のアンチテーゼだというような言い方をした。
しかし,水道方式で考えるならば,「最初に学んで最後まで発展する」という意味では,やっぱり中間項というのか,初心者のための基礎泳法,あるいは教材と考えることもできる(考えた方がよい)。
僕ら体育同志会では,だいたいこんな説明をしてきたのだと思う。
ここでは細かい泳ぎ方を紹介したり,歴史を実証的に示すことは目的ではない。
以下には,このドル平の意義を違う角度から示した理屈を見ておきたい。
それが,中内敏夫さんの「リアリズム一元論」という考え方だ。
これは,教材づくりの一般理論として位置づけることができる。
『新版 教材と教具の理論』(あゆみ出版,1990)に書かれている(写真右)。
もともとは,写真左の『教材と教具の理論』(有斐閣ブックス,1978)だ。
しかし,僕は自分で買ったのが新版の方だった。
でも,今からは78年版の方で話を進めていく。
この本は,ある方が定年で辞められたときに置いていかれた本の山の中にあったのだ。
この104頁以降に書かれている。
教材つくりには,「二元論」と「一元論」があるというところから始まる。
教材をつくるということは,教育目標と子どもの精神的,身体的活動の2つの契機があって,それをいかにして統一的に考えるのかということにほかならない。
つまり,運動文化と子ども。
この2つの契機を単純に並べれば二元論。
ところで,1978年当時ではあるが,「よい教材」として中内さんは次の例を挙げる。
・歴史的時間―テープ
・数計算―水道方式の計算体系
・数の十進構造―タイル
・水泳―ドル平泳法
これらがよいといわれているのはなぜか?
上で述べた2つの契機の統一の仕方がわかれば,同じようによい教材を作り出せる可能性があるということである。
歴史的に見れば,これらの統一を最初に考えたのが,篠原助市さんである。
心理的見地と科学的見地をどう統一するか。
このように,「目標になる科学的法則や芸術的主題と,子どもの人格と能力の発達段階を2つの別のものとして並列させ,教材はこの両者を統一しているものとする考え方」が,「二元論」である。
この二元論は,まさにデカルト的な「精神の世界」と「物質の世界」であり,両者の統一を考えるといういわゆる主観-客観図式である。
しかし,このような二元論を退けたのがデューイであるという。
デューイは,このような二元論では,指導過程が視野に入らない,それは教材の外にあるものととらえられると批判する。
そして,デューイの場合,「結局のところ教材の原形を会話にあるとの命題に結びつく」という。
教材はモノではなくて,教師と子どもとの文脈を伴った言葉の中にあるとされる。
それは,端的に問題解決学習という名前で広まった。
体育では,やや考えにくい。
しかし,デューイの考え方(というか,キルパトリックの考え方?)では,問題解決学習が学力低下を招いたとされるように,高度化する環境,科学的な学びへと展開することは難しかった。
理科は自然科学を教えるのではなく,自然を教えることになる。
国語も国語学や文学を教えるのではなく,国語の事実を教えるだけになる。
それを,中内さんは次のように評価する。
「かれの一元論が,対立する2つのものを矛盾において統一しようとする一元論ではなく,プラグマティズムに特徴的な連続性(continuity)の概念によって相互に自他を解消しあうかたちでの一元論であった」。
しかし,デューイの考え方を科学へ開かれた学びであったとの見解を示したのが,佐藤学さんだった。
矮小化したのは,むしろキルパトリックであったという。
話が長くなりそうなので,ちょっと巻きにかかるが,要するにこの「対立する2つのものを矛盾において統一しようとする一元論」が求められることになる。
ではいかに?
話を続けよう。
中内さんの言い回しは結構難しいので,僕の理解がおぼつかないところもある。
まず文化遺産であるが,これは,「人間発達の外化された遺伝情報というべき存在である」(109頁)。
このことは,マルクス主義的にみれば,人間は外の自然に働きかけて加工することを通じて,働きかえされることで,人間的能力を発展させてきた。
だから,文化とは「人間発達の外化された遺伝情報というべき存在」なのである。
それゆえに人間は,文化遺産を使って能力を伸ばすことができる存在なのだ。
「この文化遺産に発達途上の人格をまともに近づかせようとするその近づきの脈絡に一点の逸脱も断絶もないことが,よい教材の必須の条件」なのだ(109頁)。
文学,科学の法則,芸術的主題,運動技術などであり,教科成立をその背後にある文化の領域に求める考え方に見られる。
それは,既成の学問(文化遺産)を完成品とし絶対化して子どもに与え,できなければ子どもが無能だとする一元論,絶対的一元論である。
そうではない一元論とはなにか。
文化遺産を取り入れるだけではなく,「この文化遺産を担っている科学的法則や芸術的主題をそのままのかたちで子どもに近づけるのではなくて,これを子どもの生活に屈折させていくことが十分条件として必要である」。
これがわかればいいのだが。
中内さんは言い換えを行っている。
「その法則や主題のもっている一般的・普遍的な生活性の方を子どもそれぞれの生活の論理の特質に合わせて屈折させ,特殊化していくとするのが教材つくりの妥当な論法であると主張したい」(110頁)。
さて,これでわかっただろうか?
ドル平がすぐれているのは,なぜなのだろうか?
このリアリズム一元論とは何であろうか?
リアリズムとは,普通,認識主体と認識対象を切りはなして,認識が成立するという普通の科学的な考え方である。
しかし,リアリズムなのに一元論?
ここは難しいかもしれないが,そうでもないのだ。
要するに,結局同じことの繰り返しになるかもしれないが,泳ぐということを定義するときに,まず泳ぐことの本質をどうとらえるのかが問題になる。
これは存在論の問題だけど,認識論の問題でもある。
その本質は,泳ぐの一般的なかたちに組み替えられるようなものでなければならない。
だから,ヘルパーを使った泳ぎとか,ビート板でバタ足とか,面かぶりクロールではだめなのだ。
練習としてはよいが・・・。
まさに泳ぐ要素が組み合わさって単位化されていないといけない。
それが,呼吸を中核として,手足の動作と姿勢制御を含んだ泳ぎであれば何でもよい。
というか,近代泳法は速く長く泳ぐが故に,呼吸を必要とする。
しかし,速くだとか長くだとかは,目的によって変化する。
そういった近代泳法そのものではなくて,泳ぎの本質そのものを子どもにぶつけること,そこで格闘させ能力を開花させていくそのことが目的であれば,子どもの論理性の側に屈折させて,特殊化していくこと,子どもの発達の最近接領域での学びを用意するための教材が必要になる。
それがドル平なのだ。
しかし,ドル平は,子どもの発達に関係なく,泳げないから泳げるを作り出すことができるのだ。
さて,これは1970年代の到達点である。
では,他の種目ではどうなのだろうか。
同じような手続きで本質を明らかにする仕事を体育同志会ではしてきた。
最近,全体研(全国体育学習研究協議会)でも,教えることを言い始めている。
その際に,かつての体育同志会の「子どもの喜びを高める」と同じような言い回しをしているのが気になる。
①「運動の中心的なおもしろさ(文化的な価値)」の設定。
②「わざ(身体技法)の内容」の設定。それは,「運動の中心的なおもしろさ(文化的な価値)」にふれる「運動の最小単位(身体の経験)」を明確にすること。
③「共有の学び」,「ジャンプの学び」
岡野昇「アクティブ・ラーニングは体育の学びをどう変えようとしているのか」,『体育科教育』2015年7月号,16-19頁
もともと1950年代に生まれたある意味兄弟のような研究団体だったわけだから仕方がないのだろうか。
それにしても・・・。
しかし,今,本当に70年代の到達点それだけでいいのだろうか。
これをたとえば,子どもたちによる矛盾の止揚などで考えればどうなるのだろうか。
これが課題ですね。
同じところをぐるぐる回っているような気もしますが。