体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

石原千秋『未来形の読書術』を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,石原千秋さんの『未来形の読書術』を読んだので,思ったことを書きたいと思います。

では,どうぞ。

 

「読書術」なんて,まるで中学生か高校生が読むような本みたいだ。

でも,確かにそうなのだ。

「プリマ-」だからね。

ある意味「入門書」のようなものだ。

 

僕はこの「ちくまプリマ-新書」はおそらくこれで2冊目。

一冊目は内田樹さんの『先生はえらい』だった。

 

写真は,『未来形の読書術』が手元になかったので,主題が全然違う本を代わりに撮りました。

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内田さんのこの本は,学校や教師がバッシングさていることを背景に書かれた本である。

このなかでは,張良だったかの話が印象に残っている。

師匠が馬に乗ってやってきて,くつを落とす。

そしたらその師匠は,くつを拾って履かせろといった。

それにどんな意味があるのかと思っていたら,またくつを落とした。

それでわかった。

 

師匠が何を考えてしたのかはわからない。

しかし,すごく悩んでしまう。

その時点ですでに負けているということ。

もう一つは,学びは学びたければいつでも起動できるということかな。

 

この「先生はえらい」は先生の偉さを書いているのではなくて,学び手がなぜ学ばなければならないのかが書かれていると言っていいと思う。

今手元にないから適当にいっているけど。

内田さんの話はたいていそうだ。

子どもは「なぜ学ぶかわからない」のだろうが,そのことが学びを必要としているという証左だ。

「大人になれ」というメッセージを送っているという言い方が多い。

 

おっと,石原さんの本だった。

この人の本を少しまとめて買ったのだが,それは,白石陽一さんという熊本大学の先生が,「教育実践記録の『読み方』」(2012,2は2014)という論文を書いていて,まさにこの石原さんの文章を取り上げていたからだった。

ちょうど僕も『体育科教育』の連載でバルトを引用していたこともあって,気になっていたのだった。

それで,まずこの『未来形の読書術』を読んだ。

 

僕は,自分でもあんまり意識していなかったんだけど,この人の本は『謎とき村上春樹』(光文社新書,2007)を読んでいた(途中でほったらかし)。

内田さんも含めて,村上春樹さんのことを書いた本はやたらとある。

おそらく,現役の作家のことを書いた本というのは,村上さんの本が一番多いのではないだろうか。

現役を除けば,やはり夏目漱石さんなんだろうか。

夏目さんにしても,村上さんにしても,このテクストにはこういう意味や謎が隠されているという読み方がされる。

 

有名なのは,加藤典洋さんが『村上春樹 イエローページ』のなかで,『風の歌を聴け』のなかに流れている時間と本当の時間(?)が違うことを指摘した箇所だ。

内田さんも『村上春樹にご用心』を出している。

鼠と僕の関係,この世とあの世というか,こっちとあっちというか,二つの世界を行き来することだとか,その意味だとかが,いろいろな解読がなされる。

いや,本当にいろいろな解読がなされている。

 

石原さんのこの『未来形の読書術』はまさに,このことが書かれている。

テクスト論に依拠しつつ,本を読むということは,テクストをもとに読み手が自分自身を表現することであり,バルト的にいえば,読み手は新たな書き手となるのだ。

書くわけではないけど,表現するということは,言葉で表すということである。

その意味では,自分の経験を加味して新たな解釈が生まれるということである。

だから,読み手の数だけ物語ができるということだ。

 

これは,角度を変えて言えば,意味はテクストに埋め込まれているのではないということだ。

だから,ある小説を読んで癒やされたり,涙が出てきたとしても,それを他人が批判することはできない。

本人の勝手な思い込みで,癒やされたとしても,癒やされたことに価値があるのだ。

 

う~ん。

僕の問題意識がキチンと表現されている。

僕が聞きたかったことが書かれている。

これは,解釈的アプローチでもある。

そういう意味では,新たな発見もあるけど,石原さんの言い方でいえば,僕のこの読書は,どちらかというと,「過去形の読書」,つまり,自分を肯定したいときに読む,自己確認のための読書でもある。

 

未来形の読書とは,えらく単純化して書いたけど,このまだ知られていない何かを発見するために読まれる。

このことは,同時に,まだ発見されていない自分を発見する読書のことだ。

それは,世界に(テクストに)どのように切れ目を入れていくのかを決めるのは読み手であり,その切れ目の入れ方を知るということでもある。

 

だから,寅さんや時代劇のようなお決まりの話型ではないような,まだ知らない物語にあたる必要があるのだ。

寅さんや時代劇がいけないというのではない。

物語の構造がはっきりしているのは,見る前から抽象的な結論がすでに与えられているということなのだ。

 

そして,石原さんはこの抽象度を上げてみれば,物語には大きく4つのパターンがあるという。

一つは,浦島太郎型で,現実から外の世界へ出かけていって,また現実に帰ってくるという話。

二つ目は,かぐや姫型で,外の世界から現実の世界にやってきて,外の世界に帰って行くという話。

三つ目は,成長物語。

四つ目は,退行型の物語。

もう一つ,オープンエンディングという終わりのない物語もある。

 

分類の座標を変えれば,違う分類の仕方もできるが,肝心なのは,同じような話形が繰り返し採用されるということだ。

たとえば,ポケモンヤッターマンとほぼいっしょの話でしょ。

学園ドラマも,「坊ちゃん」以来,ほぼいっしょ。

刑事コロンボもいつもいっしょ。

 

で,僕がこの本を読んで未来形の自分に期待するのは,ひとつは,読み方は自由であり,そこに自分の経験を重ねて意味を読み取ること,つまり,自分自身が書き手の物語として再構成することになるということ。

もう一つは,「実践記録」もまたいくつかのパターンがあって,そのパターンが繰り返し現れるのではないかということ。

そこに本人や仲間にもあまりに自明な,解釈コードや間主観的な意味や授業に対する構えなどを読み取ることも可能になるだろう。

 

おそらく,新しい話型はそう簡単に採用されないと思うのだ。

そんなことしたら,読み手に違和感をもたれるだろう。

以前,ある若い先生が『たのしい体育・スポーツ』に2頁だけだったと思うが,実践を報告していた。

しかし,実践記録というにはあまりに体裁が整っていなかった。

そのため,ブログではまともに取り上げなかったが,同じことを大阪のある先生も指摘していた。

 

私たちが実践記録を集団で検討するのは,実践そのものの善し悪しを云々したり,価値を見出したりすることもあるが,おそらくは無意識的に実践記録の書き方そのものを指導しているのだと思う。

これはいい意味にも悪い意味にもとれるのだろうが,そうやって一定の型にはめることで,逆に実践を語る自由度が増すとも云えるのだ。

 

しかし,悪い点を敢えて指摘するならば,「権力作用」が働くということである。

それによって,記録が本質主義になってしまい,書く前から書く中味や結論が決まっていくことになりかねないということだ。

つまり,書き手の実践への意味づけが,前の実践のそれと同じものになってしまうということだ。

ストーリーラインは同じで,乗せる中味が違うだけになる。

 

だから,集団検討が必要になるのだが,その際に,意見を述べる人のストーリーラインに,この実践の中味を強引に引っ張り込んでくるということも起こるだろう。

もちろん,それはそれでいいというか,そうしかできないのだが,新たな解釈の可能性が閉ざされるという危険も大きくあることに注意が必要だ。

だから,集団検討で出されたナラティヴの意味を,丁寧に吟味する必要もあると思う。

 

どんな解釈も可能なのだが,書かれていない実践者の思いや状況などの実践の文脈を丁寧に浮かび上がらせた上で解釈しないと,まさに正解がどこかにあってそれを探すようなつまらない作業になる。

 

ややっ。

石原さんの文章を読みながら,話を自分のテリトリーに持っていってしまった。

あと1つ,「吾輩は猫である」のような一人称の文章は,書いている自分と書かれている自分(登場人物としての自分)とがあって,これは時間的に離れている。

実践記録を書くときに,この語り手としての自分と,登場人物としての自分という区別はやはり必要だ。

実はこの区別を指摘する論文もあったが,今手元にないのでまた紹介したい。

 

石原さんの文章は引用文献には使いにくいけど,でも,書かれたものすべては解釈に開かれているとすれば,あるいはバルトがいうように,われわれの使う言葉は「引用符なき引用」であるとすれば,使うこともありなのでしょう。

 

まとまらない話になりました。

いつものことですが。

 

 

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