エスノメソドロジーについて3 新しい教育社会学との関わりで
こんにちは。石田智巳です。
エスノメソドロジーの本を読んで書いていたのですが,いろいろ考えることが出てきました。
前回の「2」では,新しい教育社会学との関係を述べようかと思いましたが,できませんでしたので,今日述べてみたいと思います。
では,どうぞ。
実は,今読んでいる『エスノメソドロジーの現実』(世界思想社,1992)は,まさにナラティヴについて読んだ最初の本『ナラティヴ・アプローチ』(野口裕二編)のように,1つ1つの話が,面白くてためになる(まだ全部読んでいないけど)。
そう,まさにナラティヴの実践とエスノメソドロジーの実践は近いのだ。
もちろん,違いもある。
その違いはおいおいわかるだろう。
で,これから,その1つ1つの話を紹介してみたいと思っていた。
とくに,イタリアの精神病院の改革という実践は,まさに教育実践にもそのまま応用できるような内容であり,しかも,これはナラティヴ・プラクシスなのだ。
ただ,ソシュール言語学,ナラティヴ・アプローチ,テクスト論,言語ゲーム,エスノメソドロジーなどと興味が湧いてくるのは,なぜなのだろうかと思ったのだが,ようやくわかってきた。
今あげた学問領域は,単に言葉を問題にするだけではない。
カント的な「物自体」というか,イデア的世界と人間の認識の世界ではなく,(フッサール)現象学が根にあるということなのだ。
これだけいうとやや誤解があるのだが,どこかに正解があってそれを探すという実証主義的な研究,規範的アプローチではなく,解釈的アプローチとか現象学的アプローチがあるということだ。
構造主義の祖だ。
しかし,現象学が言語論的転回にかかれば,間違いなく「世界とは,認識であり,言葉である」となるのだ。
そして,メルロ=ポンティの『行動の構造』,『知覚の現象学』は,まさに構造主義的であり,現象学なのだ。
いずれにしても,これらは解釈的アプローチが採用されている。
エスノメソドロジーの本を読んで,違背実験の結果,人は秩序が乱れるような事態が起こっても,混乱する事態にはならないこと,そして,自分なりの再解釈,再組織化を通して,新たな自分が納得できる説明をすることで,秩序を保とうとすることがわかる。
ちなみに,ナラティヴ・ケアやセラピーは,危機的な状況において個人内で秩序が保てなくなったときに,他者の力を借りて,自分が納得できる物語を作って,秩序を再構成し回復する。
似てるでしょ?
エスノメソドロジーでは,行為者の秩序回復のメカニズム,あるいは自分なりに納得させる(秩序づける)メカニズムが明らかになる。
もちろん,いつも同じではないが,少なくとも,言語ゲームは「あらかじめ与えられたルールに従って行われる」というだけではなんの説明にもなっておらず,その都度,ルールや解釈が生み出されるという動的な実践なのである。
我々が従うべきルールというのは,ある種の大きな構造である。
でも,ゲームをやっている内部でのみ通用する小さな構造もある。
さて,ここまで書いてみて,「新しい教育社会学」を見てみたい。
実は僕は,「新しい教育社会学」というものをよく知らなかった。
知ったのは,教育科学研究会(教科研)の『戦後日本の教育と教育学』(かもがわ出版,2014)の中で,久冨善之さんが書かれていたのを読んだときである。
でも,この時は別に何の興味も湧かなかった。
というか,スルーした。
*とはいえ,3月にこの本を読んで感想というかコメントを記事にしたのですが,未だ眠っています。
その後,体育同志会の田中委員長が,なんかの折に「新しい教育社会学」について言及していたことで,思い出した。
そして,「新しい教育社会学」について書かれた論文を検索して,2つの論文に出会ってプリントアウトした。
ともに,『教育社会学研究』に載っている。
志水宏吉「『新しい教育社会学』その後―解釈的アプローチの再評価―」(40集,1985)。
稲垣恭子「教育社会学における解釈的アプローチの新たな可能性-教育的言説と権力の分析に向けて-」(47集,1990)。
読んだのは,後者が先。
あの志水さんが,こんな仕事をしていたのだ。
で,いきなり読んでも,最初はあんまり理解できなかった。
レビューされている論文や論そのものをよく知らないし,問題意識が捉まえにくかった。
教育社会学のことはあんまりよくわからなかったから。
ただ,教育社会学にも,苅谷剛彦さんのようにエビデンス・ベースの実証主義者もいれば,まさに解釈的アプローチの人もいるということはわかる。
1970年代にうまれた「新しい教育社会学」は,一つは,解釈的アプローチを採用した教育社会学だということができる。
もう一つは,おそらく構造主義的な構造と実践というのか,教育的事象を成り立たせている社会や環境や文脈への注目ということだと思う。
そして,それまでの機能主義や実証主義が問わなかったある意味「自明」であったことを問い返したということだろう。
そこに,ミードのシンボリック相互作用や,ガーフィンケルのエスノメソドロジーなどが方法として出てくる。
冒頭の「秩序の維持」問題に関していえば,たとえば生徒と生徒のやりとりの中で,うまくいかないことがあったときに,いかにして生徒たちは秩序を取り戻すのかという言語ゲームのメカニズム,あるいは暗黙のルールが取り出されるだろう。
そして,そこに働く小さな構造と,その生徒のおかれた状況,社会の状況なんかの大きな構造も合わせて分析されるだろう。
これは一例だから,実際にされているのかどうかは知らない。
そして,稲垣,志水両氏が着目しているのが,再生産理論である。
これは僕でも知っていた。
というか,僕が知っていたその有名なエスノグラフィーは『ハマータウンの野郎ども』というポール・ウィルスの作品である。
2007年頃から貧困,格差が問題になったときに,まさに社会学的な調査では,親の資本と子どもの学歴,母親の学歴と子どもの学力との相関などが明らかになったと騒いでいた。
しかし,そんなザックリとした因果関係ではない,貧困再生産のメカニズムが問題にされるべきなのだ。
ウィルスが示したのは,反学校文化とその背後にある労働者階級文化の関係であり,労働者階級の師弟は,自らすすんで反学校文化を受け入れ,自らすすんで労働者になりにいくその再生産のメカニズムを明らかにした。
つまり,学校という社会制度からの離脱は,離脱する彼らの内在的な論理があることを見出したのであった。
学校が垂れ流す道徳的な立身出世の物語こそ,彼らが否定すべき対象となるということだ。
ウィルスの研究は,再生産理論であり,エスノメソドロジーでいうところの秩序の維持のプロセスを描いている。
志水さんは,「自然科学的な命題構築の努力は放棄されるべきものではないが,社会的場面におけるそれは,えてしてつまらない(常識を追認するだけの)ものになってしまいがちである。
われわれがなさなければならないのは,なぜそうした命題(=統計的関連)が成立しうるのかということを,当事者の論理(=解釈過程)に即して状況内在的に明らかにすることである」(202頁)と述べる。
なるほどね。
教育実践を対象とした研究,つまり,授業研究もまたこの文脈で読まれなければならないのだ。
だから,まさに教師の実践知のプロセス,秩序維持のプロセスを掬いだしていくコトも必要になるわけだ。
志水さんの大阪での仕事は,どうだったのだろうか。
僕は悪い評価はしていないが。
そんなことよりも,志水さんが書いたのが1990年だとすれば,そこからさらに25年たった今,教育社会学では,どういう議論になっているのだろう。
そこが知りたい。
というのも,再生産理論は「あきらめの理論」ではないのか,と思うからだ。
教師が良質な教材や教科内容を持ってきたとしても,労働者階級の師弟には,それらをはねのけるだけの論理があるのだ。
だったら,それを打破する方法を持ち得ないのではないか。
というか,メカニズムを明らかにするのが教育社会学の仕事であって,それを実践的になんとかするのか別の領域の仕事ということになるのか?
だから,新しい教育社会学は,あるいはそれを参照して実践を考えようとするならば,もう一つ先のフェーズにすすむ必要があるように思うのだ。
そして,冒頭に述べたイタリアの精神病院改革の実践は,その先のフェーズにあるような気がします。
それは,僕が読んだ限りでは,ナラティヴの実践の系列におかれることになると思うのですが,勝手におくなといわれてしまいそうですね。