体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

エスノメソドロジーについて1

こんにちは。石田智巳です。

 

今日はエスノメソドロジーについて考えてみたいと思います。

これは,言語ゲームを考えているときに,そういえば似ているなあと思ったからです。

専門家ではないので,自分の頭の中の整理という感じで書いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

以前,言語ゲームについて書いたのは,ソシュールのラングとパロールのアイディアと,ヴィトゲンシュタイン言語ゲームのルールと実践の関係が似ているなあと思ったからだ。

そのときに,エスノメソドロジーというのは,具体的な言語ゲームの記述とそこに内在するというのか,生まれるというのか,そういったルールを見つけ出す営みだったような気がしていた。

 

記述される(物質化される)という点では,ナラティヴ・プラクティスに近いと思うし,ライフ・ストーリーにも近く,さらにいえば,実践記録にも近いのではないかと思ったのだ。

 

実は,『エスノメソドロジーの現実』(世界思想社,1991)という本を,ずいぶん昔,学生の頃に買ってめくっていたことがある。

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でも,その時はよくわからなかった。

それもそうで,何となく買ってみただけだったから。

おそらく,授業研究が質的な研究の時代になってきて,エスノグラフィーと似ているし,会話の分析をやるんだよなということで,買ったのだろう。

 

でも,それが生かされたことが一度だけある。

それは,明石だったかで花火大会のときに,事故があった。

そのときに,なんかの証言で「茶髪の若者」が悪いことをしただったかという話が,アナウンサーから語られたときに思ったのだ。

「茶髪の若者」というのは,文字通り「髪の毛が茶色の若い人」というデノーテーションの方を指すのではなく,「素行の悪い人」というコノーテーションを指しているということを思ったのだ。

譬えがよくない?

これって,意図的にか,無意図的にかは措くにしても,何らかのメッセージが伝わってしまうのだ。

 

いずれにしても,その本を読んでみることにした。

最初に,最後に載せてある補論から入る。

これは,「エスノメソドロジーの歴史的展開」となっている。

誰がどういうキッカケで言い始めたのか,これが書かれていると思ったからだ。

 

とりあえず,ガーフィンケルという人が始祖であり,エスノメソドロジーとは,ガーフィンケルの造語である。

ガーフィンケルは,パーソンズという社会学者とシュッツという社会学者から学び,「社会秩序」を研究し始める。

 

パーソンズは僕でも聞いたことがある。

研究の中味はよくは知らなかったが。

この人は,言ってみれば,実証主義的な社会学,つまり「規範的パラダイム」の頂点のような人である。

主観とは独立に客観が存在するというリアリズム=実証科学の立場である。

ガーフィンケルは,この立場を「対応説」と呼ぶ。

単純にいえば,対象と認識に現れた対象とが対応すると考えるわけである。

 

ご多分に漏れずというのか,この立場に対するのがシュッツであり,「解釈的パラダイム」である。

現象学の流れである。

というか,「フッサールの影響を受け」と書かれている。

つまり現象学的社会学ということなのだ。

間主観性社会学といっていいかもしれない。

ガーフィンケルは,この立場を「同一説」と呼ぶ。

で,これも面白いと思うのだが,同一説でも,言葉を問題にするのであれば,言葉が認識そのものであるということになり,これは,ソシュールの考え方でもあるのだ。

 

では,この一見対立するような二つの立場からどういう影響を受けたというのだろう。

その前に,最近,この対立関係をよく目にする。

というか,自分が興味があって芋づる式に文献に当たるから,既視感が強いというべきなのか。

 

フッサールは,デカルトやカント的な認識論の枠組みである主観-客観図式(パーソンズもそう)では,認識問題の難問は解けないことから,超越論的な主観なるものの内側だけで話を進めようとした。

これが同一説というわけだ。

フッサールの場合,もともと諸学問の「危機」を問題にして,現象学を展開する。

 

どういうことかといえば,哲学からは実証的な心理学や社会学が分かれていく。

哲学の方法が曖昧なため,実証的な学問を携えて,人間の心理や社会を解明しようとする。

しかし,これでは解釈枠組みを設定して,その範囲での事実学にはなるけど,解釈枠組みの変更は視野に入らず,本質学にはならない。

 

だから,人間(社会)にとっての意味や価値を明らかにする本質学を展開しようとした。

そして,そのための方法を樹立しようとして現象学を言い出す。

このあたりの知識は,師の一人である竹田青嗣さん(お会いしたことはない)に学んだ。

 

で,ヴィトゲンシュタインの前期の「論理哲学論究」は,「写像説」といわれるが,これは「対応説」に近く,後期の言語ゲームは,「同一説」に近いのだ。

あるいは,ナラティヴ・アプローチの社会構築主義もそうだ。

要するに,会話の中味は,それぞれ本質というかイデア的な意味があって,そこに対応すると考えないということだ。

 

橋爪大三郎さんの言い方では,「言語ゲーム」とは,「我々の振るまい」のことなのだ。

ルールがあって,その下で会話ややりとりが整合的に行われるのではなく,その都度意味やルールが生成するというわけだ。

 

では,問いを戻して,ガーフィンケルはどのようにこの二つの立場をエスノメソドロジーというアイディアにつなげようとしたのか。

これについては,具体的な事例が紹介されて,歴史が語られたのであまりうまくつかめなかった。

 

それで,最初に戻って読んでみた。

同じようなことが書かれているが,この章の構成がなかなか面白い。

まずは,違背実験という有名な実験が紹介される。

詳細は述べないが,単純にいえば,会話などで相手が期待する答えとは違う反応をすると相手はどうするのか?という実験である。

そのときに,その相手がどうやって秩序を見つけようとするのかが考察の対象になる。

 

この章では,対応説と同一説についてより詳しく説明がされる。

そして,驚いたことに,ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』(言語ゲームの出てくる本)の有名な挿絵(ウサギにもアヒルにも見える絵)が出てくる。

やっぱり。

これは,対象の側に根拠を求めるのではなく,認識の側に根拠を求める。

人間の知覚の側が,「物象化」する。

これをメルロ=ポンティは,知覚の意味付与作用と呼んだ。

 

後に,エスノメソドロジーは,「見られているけれども気づかれていない」物象化作用の解明や,人間の知覚作用を可視化するために考案され,それを主題とする。

これだけではちょっとわかりにくいね。

具体的な実験や分析を載せていないから。

 

でも,ここではパーソンズとシュッツの両方の影響についてである。

現象学は,方法としての「判断中止=エポケー」を行う。

ガーフィンケルは,エポケーを行わずに,意識の志向性を可視化しようとする。

どうやって?

それが違背実験である。

 

では,パーソンズの影響はどこにあるのか。

主観的観点というのは,シュッツあるいはフッサールにおいては,自分が自分の意識において反省する中で見出される。

しかし,パーソンズは,「主観的な現象は観察者によって記述されまた分析されるものとしてのみ意味を持つ」とする。

そう,ガーフィンケルエスノメソドロジーは,「行動に意味を結びつけるのは観察者であって,行動を行っている被観察者ではない。行為を反省において経験するのは観察者である」ところで成立する。

 

これは,主として言葉ではあるが,振る舞いに隠れている意味を,観察者が解釈するということになるのだろう。

そういう意味で,客観的に言語ゲームの意味を解明しようとするといっていいだろう。

 

今後,具体的な事例とそれによって考えたことも書けたら書いてみたいと思います。

最終的には,実践記録の分析に応用したり,あるいは記録そのものにどのような意味付与作用があるのかを明らかにする方向に向かっていければよいと思います。

 

 

 

 

 

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