体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の実践研究についての覚え書き4-人格形成論は?

こんにちは。石田智巳です。

 

なぜこだわっているのかが,自分でもよくわからないところもあるのですが,何となくわかってきました。

でも,書き始めると,なんだかストレートにそのこだわっている部分にたどり着けません。

今日は,体育同志会の科学への志向が逆に,人間形成的な志向を弱めたのかどうかです。

これもどうなることやら。

では,どうぞ。

 

写真は,たまたま車に乗っていて,5万キロになったところを見たので,写真を撮った(本文に何も関係ありません)。

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体育で運動文化を教えることと,それによって何が育つのか。

運動文化を「科学」だとか「教材」とかに読み替えてもよい。

この問題は,かなり古くからある。

しかしなかなか「これ」という正解にたどり着けるわけではない。

 

体育に関してのみいえば,友添秀則さんの『体育の人格形成論』(大修館書店,2009)を読めばわかるが,様々な立場がある。

もっと単純に,道徳に関わっても,「価値を教えるのか教えないのか」といった議論もある。

為政者が道徳を進めるのは,為政者に都合のいい道徳観を教えたいがためであり,自由に考えて政権批判をされるような道徳では困るわけである。

 

どのような人間形成機能があるのか?と問うのではなく,私たちが子どもたちに身につけさせたいのはどのような機能か?を問うべきであろう。

そして,それは人によって,立場によって違うのであって,どちらがより優れているかを競うものではない。

だから,多様性を認めるしかない。

でなければ,話は全く進まない。

というわけで,今,この流れでは,人間形成機能の中味については問わない。

 

さて,前回も書いたことだが,60年代には,民間教育研究団体のうち,教科に関わった団体の多くが科学を志向した。

体育同志会も,科学を志向した。

しかし,その科学とはなんだかが問われる必要があるのだが,これが難しい。

 

かつて,教育社会学の清水義弘さんが展開した教育科学論争では,科学的イデオロギーにおける科学と,コントやデュルケムなどの実証主義的な科学を区別すべきことがいわれていた。

前者は,イデオロギーだと退ける。

後者の主観を排した客観性,再現性に支えられた科学こそが,その後推奨された。

授業研究も60年代にこの実証的な科学が取り入れられた。

 

しかし,時代は下がると,科学そのものが相対化される。

「フレーム問題」というのがあるが,それについては触れない。

あるいは,ブルーナーは論理科学モードとナラティヴ・モードを区別した。

前者ですら,ある一定の形式を持ったナラティヴだという言い方もされる。

エスノメソドロジーも,言語ゲームも,ライフ・ストーリーの方法も,社会構成主義,あるいは社会構築主義であり,規則や意味はその会話の場で生成されるとされている。

その場で生成されるからといって,これらの方法に価値がないわけではない。

むしろ,科学や論理学が取り扱えなかった領域を扱う方法であり,科学性を持たなくても,論理性を持たなくても,意味が通じて、適切な振る舞いができるのはなぜかを解明するのだ。

だから,今,科学そのものを云々することは難しい。

 

話が長くなってきた。

僕が言いたいのは,次の奥平康照さんが書かれている文章なのだ。

「『道徳』時間特設や教科内容の国家統制による国家イデオロギーに対抗するために,また保守と革新の政治的対立から相対的に自由な公教育を実現するために,教育内容・教材を道徳的価値規範から切りはなす根拠を求めた。

つまり知育と徳育の厳格な分離が課題だとみなされ,道徳的・政治的価値から自由な客観的な教育内容・教材編成の理論が求められた」(奥平〔2013〕「『山びこ学校』と戦後教育学 序説」,『和光大学現代人間学部紀要』第6号,19頁)。

 

これは,無着さんの『山びこ学校』がなぜその後展開されなかったかを,50年代の教育の国家統制に抗する民間の側の論理を時代背景を加味しながら,読み解いたなかの一つとして出てくる。

 

日本の場合,平等を求める余り,多くの子どもが能力主義競争に駆り立てられたとも言われている(たとえば,苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書,1995))。

じゃあ,道徳教育に反対だとして,どのような人格形成機能を期待したのか。

 

60年代の学力論では,勝田守一さんが「成果が計測可能なように組織された教育内容を学習して到達した能力」を「学力」と規定した。

これは学力テストが云々されていた頃の話だ。

影響力があったけど,学力と人格形成機能は切りはなされている。

 

体育同志会は「科学とヒューマニズム」であった。

「できるようにすること」は,運動文化・スポーツ分野の主体者になるためには必要である。

選手は高度の技術戦術水準を,大衆は低度のそれをではよくない。

だから,授業では「できること」が求められた。

70年代になると,「わかること」や「わかり方」が問題にされ,「わかる,できる」という言い方がなされた。

 

今でも,体育同志会の会員の中には,「わかる,できる」をベースにおく人たちが数多くいる。

今年の「みのお大会」も「わかって,できて,学びあう」としている。

これは,80年代のスローガンと同様。

基本的には,「科学」志向である。

 

研究も,科学的に行われる。

しかし,じゃあ体育同志会の実践研究は,教育技術の法則化のそれと同じか?というとそれは違うというだろう(おそらく)。

では,何が違うの?

 

法則化運動は,僕の理解が間違っていなければ(よく間違うのだが),教授学構想から出てくる。

教授学の構想は,斎藤喜博さんの授業などよいとされる授業の典型を創造することと,その条件や法則性を明らかにすることとされた。

これは,まさに勝田守一さんたち1950年代の教育科学研究会の課題を引き継いだものだ。

そのネオ教授学構想に法則化運動は位置づくのだと思う。

 

体育同志会はどうか?

学習活動そのものを学習の対象にして,子どもたちが主体となって学習集団を作り上げていくこと,教える内容そのものや目標についても問うというところに,特徴があるのだろう。

しかし,学習活動そのものを学習の対象にするのは手間がかかるし,むしろ,かつて中村敏雄さんが警鐘を鳴らした「教材化された教材の借用」という事態も起こっている。

こうなると,授業は,教材化された教材やグループ学習を子どもに与えるというある意味で「手続き」になってしまう。

明らかにされた筋道(系統)に従わせて,ポイントとなる発問を用意して,子どもたちがみんなでわかって,できるようになる。

これでは,法則化となんら代わりがない。

 

「わかる,できる」だけでは,あまりに透明すぎて,人格的な側面へのアプローチはむしろ避けているともいえる。

でも,そこに迫ることに禁欲的だったのが,60年代の民間研のスタイルであったのかもしれない。

そこには,グループ学習ですべての子どもにというヒューマニズムがあった。

 

しかし,以前も書いたが,教科内容研究がその突破口となると思うのだ。

出原さんの書かれた文章については,以前も載せたが,もう一度載せておく。

 

「今の子どもの最も主要な歪みである能力観や競争観,友達観,これらに切り込み,変革していくのが体育の授業の役目ではないかと考え始めています」(出原『「みんながうまくなること」を教える体育』(大修館,1990)。

 

「歪み」と見るかどうかは立場によって違うだろう。

しかし,共生を目指すのであれば,新自由主義的な価値観を相対化させることが必要である。

この部分は,単なる道徳ではなく,スポーツと子どもが出会うことで生じる矛盾を教科内容としてどう乗り越えるのかという問題設定がなされ,そのことが学習の対象とされるべきだと思うのだ。

 

さて,そう思う人と,そう思わない人がいる。

また,子どもたちの学力を伸ばすべきだと考える人もいれば,それでは能力主義競争に絡め取られると危惧する人もいる。

また,子どもたちに「成長」「立身出世」というある種の神話的な物語を当てはめてしまい,そのことで子どもを苦しめることに敏感な人もいる。

 

学校が要求する価値への順応,スポーツが要求する競争への参画などは,支配的で抑圧的な物語になりがちだ。

しかし,そんなポストモダン的な,相対的な言い方をするならば,学校の役割が見えなくなるという言い方もできる。

じゃあ,「できなくてもいいのか?」となるわけだし。

だから,学力と人格といった場合に,とても難しい問題を同時にはらむ。

 

こういうことが最終的に書きたかったわけではない。

体育同志会の中にも,多様な考えがあるということであり,それは,どの時代の学習論に影響されているかによるからだ。

本当はそのことがいいたかったのですが,こんな話になってしまいました。

 

 

 

 

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