体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の実践研究への覚え書き2-科学への志向

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,体育同志会の研究というよりも,体育同志会がなぜ科学を志向するようになるのか,このことについて書いてみたいと思います。

体育同志会の中のことよりも,周りのことになります。

いつも思うのですが,どうなることやら。

では,どうぞ。

 

「体育同志会がなぜ科学を志向するようになるのか」。

この問いに対しては,当時の方々,たとえば伊藤さんや永井さんに訊くのがいいと思うのは短見である。

彼らはその時代にそこにいたから答えられることがある。

反対に,そこにいたが故に答えられないこともある。

 

自分が吸っている空気がおいしいかどうかは,別の空気を吸って比較してみないとわからない。

その空気にどっぷりとつかっていてはわからないのだ。

そういうものだから。

 

先日は,科学への志向は,「時代」だと述べたが,この時代を見ていく必要がある。

もちろん,科学を志向した理由は,戦前の反省もあるだろう。

科学と民主主義というのは,「鉄腕アトム」のテーマでもある。

1952年に始まった『鉄腕アトム』には戦争への嫌悪があるわけだから,そのアナロジーでとらえるとわかりやすい。

しかし,もう少しコトは複雑なはず。

 

もう一度,先日書いた内容に戻りたい。

体育同志会は,もともと日本生活教育連盟(53年に改称。それまでは,コア・カリキュラム連盟)に帯同していて,雑誌『生活教育』に通信欄のような頁があった。

竹之下休蔵さんも,コア連にいたようだ。

 

戦後の教育は,アメリカからの新教育,地域教育プランが中心であり,カリキュラム研究がなされた。

日本では,梅根悟さんの「川口プラン」や,大田堯さんの「本郷プラン」などが有名である。

「浦和の体育」も体育が中心であるが,ある意味では「浦和プラン」なのだ。

 

コア連のもう一つの特徴は,コア・カリキュラムというだけあって,社会科を中心にした教科の中心と周辺の配置があった。

もう少しいえば,生活教育だから,生活の一部(郵便,遠足,買い物)などの「ごっこ学習」をやりながら,書くこと(国語),計算すること(算数),流通の仕組みなどを学ぶ(社会)という方法であった。

一年を通じて,地域にある行事(田植え,祭り)なども対象にして学ぶのだ。

 

しかし,遠足で子ども52人とおとな2人の切符を買うとか,おつりはいくらとか,足し算も引き算も,かけ算もその都度出てくる。

これでは,計算の力はつかない。

そういった教科書を見てびっくりしたのが,遠山啓さんで,水道方式をつくっていく。

子どもの論理に引き寄せた算数の系統的な指導を考えたのだ。

 

生活教育への批判は,知識偏重を排してプラグマティックな問題解決学習を展開したことに対して,系統学習派(これにもいろいろな立場がある)が批判をしたという構図になる。

 

系統学習派の批判の前にも,別の批判があった。

それが,生活教育を標榜している割には,アメリカ的な生活は,日本の都市部には見られるものの,農村,山村,漁村の生活は厳しく,それどころではないというところからくる批判だった。

あるいは,カリキュラムはあるけど,子ども不在という批判でもあった。

 

その批判と対案が,まさに1951年に出された無着成恭さんの『山びこ学校』であり,生活綴方だった。

これらをひっさげて,日本綴方の会(今の日本作文の会),そして,教育科学研究会ができる(教科研は復興)。

これは,アメリカからの輸入教育への批判と同時に,生活に学ぶというのはこういうことだという実例を示したわけである。

つまり,もう一つの「生活教育」だった。

 

だから,体育同志会の「生活体育」は,もう一つの立場の教科研から批判されたのだ。

それは今は措くが。

 

教科研の雑誌『教育』の戦後の創刊号には特集が二つあって,一つは「山びこ学校の総合検討」であった。

そして,このブログにも書いたが,授業研究の方法として「実践記録」を書いて集団で検討する,あるいは,読みあうという方法がとられた。

 

体育では,佐々木賢太郎さん,亀村五郎さん,小関太郎さんなどが記録を書くが,それは作文の会や,教科研の枠の中の話。

それが,1959年に日本体育学会でも「実践記録」が取り上げられる。

そして,ピークが1962年。

先日のブログでは,1962年は文部教研が始まった年だと述べた。

この年がやはり重要なのだ。

 

しかし,もう少し戻りたい。

1951年に『山びこ学校』を出した無着成恭さんも,その数年後には山形県の山元村を後にして,大学に通い,東京の明星学園の先生になってしまう。

教科研・国語部会を担っていく。

無着さんは,山形の田舎で『山びこ学校』を続けることができなかった。

 

コア・カリキュラムという考え方,生活教育という考え方は,系統学習派から批判される。

先に遠山啓さんが,自分の子どもだか,甥だったかの教科書を見てびっくりして,水道方式を創り出したと述べた。

これは『日本の新学期』(読売新聞編,僕のは「ほるぷ」版)に書かれていた。

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遠山啓さんは,もう一つの生活教育である生活綴方をも批判する。

教科研も,50年代後半以降,「教科の指導」を会の研究の中心におく。

系統学習の流れが強くあった。

生活綴方は,生活を中心とした教育であり,生活指導の方法であった。

綴方をもとに各教科の指導を行ってきたため,これを「生活綴方的教育方法」といった。

生活指導の方法による教科指導の方法の統一である。

 

1955年以降,日本は高度経済成長に入る。

1957年にはスプートニクショックが起こり,アメリカでも知識を教えることが重視され,教育内容の現代化運動が起こる。

1958年の指導要領の国家基準化までには,徹底的な「日教組いじめ」(中村敏雄「序」『戦後体育実践論』2巻,創文企画,1997年,5頁から)がはじまる。

この学習指導要領は,教科カリキュラムとなった。

 

この文部省主導の支配的な教育に対抗するためには,真の科学を背景にした教育研究,授業研究が必要になる。

そして,教育内容の現代化の風のもと,水道方式などに学び,各教科で民主的,科学的な教育内容の自主編成を行っていく。

 

体育同志会も,生活体育論から運動文化論へと発展するその原動力は,「科学への志向」であり,教育内容の現代化運動の風をとらえて,そして,水道方式に学ぶのであった。

 

それだけ,学習指導要領の統制は激しく,ある意味矛盾するのだが,民間教育研究団体は,指導要領の支配がきつくなるから,それに対抗しようとして,同じような枠組みで違う内容を構築しようとすることになる。

 

もう少し書きたいことはあるのですが,今日はここまでにします。

続きは,何が出るのか???

 

 

 

 

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