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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の実践研究についての覚え書き1-1960年頃まで

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,この間,いろいろ気になっていることについて書いてみたいと思います。

それは,体育同志会の研究についてです。

もちろん,僕が研究局長だから,そんなことを考えているのだろうと思われるかもしれませんが,少し考えなければならないことがあるような気がして,そのことに迫れるかどうかはわかりませんが,書き始めてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

体育同志会が60周年を迎えて,この間,過去60年間の総括をするいろいろな機会があった。

僕も,『運動文化研究』32号に,研究組織のことを中心に書いた。

これは後半30年のことだ。

体育同志会の強みは,「理論が実践の後に浮かび上がる」と考えるところにあると思う。

逆に言えば,運動文化論という肥大化した実体的な論があって,それが僕らの日々の実践を統制するものではない。

 

伊藤高弘さんは,30年以上前に,同志会の組織的特徴を「やってみなければわからない(実践性)」,「一度だけではわからない(持続性)」,「今日わからなくても明日がある(楽天性)」と表現した。

ここには,研究の科学化,組織の民主化が志向されているのである。

そして,「子どもの喜びは,教師の喜びそのものであり,子どものつまずきは,教師の無力の結果であると自覚し,その葛藤というか矛盾といおうか,その執拗な追求・克服の果てに,『運動文化論』が実体化してくるのである」と述べた(『運動文化論』,通称赤本,1975年,3頁)。

 

写真は「赤本」。

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理論に対する実践の優位性というのは,これはマルクス主義的な発想だ。

実践で確かめられた理論となるわけだが,これは理論と実践の弁証法的な発展へとつながる。

だから,完成された理論として運動文化論があるのではなく,そのときどきの会員の持てる力量の総和によって,論が築かれていくものであって,その論が人々の実践を方向付けるものとなるのはよいにしても,統制することになってはまずいのだ。

統制することになるということは,実践が理論を変化させることは「理論上」難しくなる。

 

ところで,体育同志会は丹下保夫さんが始めた頃は,「生活体育論」であった。

この生活体育論は,戦後新教育の流れに位置づけることができる。

つまりは,アメリカ輸入の生活教育論(バージニアプランだとか,カリフォルニアプランだとかの地域教育論)を源流に持つ。

アメリカは,州単位で法律があるように,州の自治を大切にする。

 

その流れが日本に入ってきたのだ。

それが地域でトータルなカリキュラム―当時はコア・カリキュラムといったりした―を作ろうとした。

体育同志会の生活体育論の1つは,「地域カリキュラムを作る」ということでもある。

「浦和の体育」はそれにあたる。

 

体育同志会も,日本生活教育連盟(日生連。かつてのコア・カリキュラム連盟)に帯同して,カリキュラム研究を行っていた。

それを源流に持つわけだが,1950年代になると,いろいろな批判に会うことになる。

大きな批判は,系統的な指導内容や方法を持たないことによって這い回る経験主義とされたことであろう。

コア・カリキュラム連盟には,極端な反主知主義者もいて,知識を教えることへの嫌悪もあった。

 

ちなみに,グループ学習研究会(後の全体研)を組織した竹之下休蔵さんも,コア・カリキュラム連盟にいた。

全体研は子どもの興味を優先するため,かつては教えることに対して禁欲的であった。

アメリカからの理論を頼りに,グループ学習を研究するという意味では,この2つの団体はもともと親戚のようなところがあった。

全体研は,その後も技術指導に対しては懐疑的なところがあった。

 

さて,1955年に体育同志会ができると,生活体育論に運動技術の指導をどう位置づけるのかという課題が浮上する。

ある意味では外圧に対して揺らいだ部分がある。

しかし,時代がそうさせたともいえるのである。

ただし,それまではこれも時代なのだが,技術指導をしなかったのは,できなかったから。

ここで「時代」というのは,カリキュラム研究においては「指導」という発想があんまりなかったのだ。

だって,教えるということは,子どもの自主・自律に反することになるから。

そんな時代だった。

 

それでも,1960年に子どもの喜びを高める運動技術の指導の考え方,中間項から後の基礎技術論へつながる考え方が出された。

この同じ頃に丹下保夫さんは,海後勝雄さんからマルクス主義的な教育哲学を摂取する。

このあたりは高津勝さんが詳しいので参照されたし。

 

このころの体育同志会の研究は,実験的に実践をやってみて,データを取って検証するというものだった。

だから,『たのしい体育・スポーツ』7.8月合併号が,データの特集をしたわけであるが,もともと科学とヒューマニズムを標榜する体育同志会では,仮説を立てて実際に子どもを相手に検証するというスタイルがあった。

 

そうやって考えてみれば,生活体育の頃は,理論的な仮説を実践してみるというもので,それがうまくいかないと,どんどん理論が先行して膨らんでいったともいえる。

理論を実践に当てはめるということだ。

 

ところで,体育同志会が科学を標榜するようになったのは,戦前の教育が非科学的だったから(だけ)ではない。

これも「時代の流れ」だったからだ。

ここら辺の理路をうまく整理できるか心許ないのだが。

 

戦後の教育,とりわけ実験学校での教育研究は,先に述べたことと同じだが,地域に即したカリキュラム研究であり,各種データを取るという形で行われていた。

1950年代になると,いわゆるアメリカの対日占領政策が変化する。

反共防波堤政策になる。

そして,いわゆる「独立」後は,教育についても,反共が出てくる。

日本標準をつくった石橋勝治さんは,生活教育的な社会科を展開したが,その教育法がアカとされて,パージされてしまったのだ。

 

1958年の学習指導要領は,国家基準カリキュラムであったが,それを具体化するための施策,つまりいうことを聞かせようとするために,いろいろ混乱があった。

それは,道徳,教育二法,勤評,学力テストなどであるが,指導要領が実施される1962年からは,日教組教研に対抗する意味で,文部教研が始まる。

日教組いじめ」であり,教育の東西冷戦の様相を示す。

 

だから,当初のアメリカ直輸入の教育と,それに反対する民間や個人という対立図式は後に解体した。

ちなみに,コア・カリキュラム連盟は「民間文部省」というありがたいのか,ありがたくないのかわからない呼び名をもらっていた。

それらをひっくるめて左となり,大同団結して,右の文部省の教育政策へ対抗した。

 

ということで,今回の話は終わり。

続きはまた。 

 

 

 

 

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