体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 7.8月合併号(№293) 新井友彦実践を読む

こんにちは。石田智巳です。 

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』7.8月合併号の新井実践を読みます。

先日も書きましたが,新井さんは昨年のみやぎ大会で報告する予定だったのですが,仕事の都合でキャンセルされました。

そのときの記録がバレーボールの記録で,興味深いものだっただけに残念でした。

でも,今回は,雑誌でいろいろな写真もついているので,これも興味深そうです。

 

先ほど,安保法案が衆議院強行採決されました。

やれやれ,まだ参議院がありますね。

声を上げていきましょう。

 

では,どうぞ。

 

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新井さんは,体育同志会の現役の中では,数少ない高校の教員だ。

高校の体育教師は,いろいろと忙しいようで,なかなか研究団体に入っている人は少ないと思う。

新井さんは,学生時代はハンドボールで全日本ジュニアに選ばれていたという。

それで,僕は大学のハンドボール部の部長だが,新井さんはうちの監督のことを知っているという。

世の中は狭い。

 

そんな新井さんも忙しいながら,体育同志会の活動もやっている。

そして高校分科会でのユニークなバレーボール実践を紹介してくれている。

新井さんのこの記録は,みやぎ大会の記録よりも読みやすい。

観点が絞られているからだと思う。

 

冒頭の,Y・Kさんの感想文から,高校生の体育観というものを読み取っていく。

そして,なかなか普通の人には書けないことを書く。

「その体育館を揺さぶる私の方法としては,体育の授業で,ノートを一冊用意してもらい,このノートに『わかる』をちりばめていくよう(に)します。彼らの体育観は,『できる』に覆われているために技術を獲得途中の『未上手な子』にとっては,かなり辛い体育の授業になっていると思います。また,『できる子』もできるだけで,『わかっていない』ので,もっとうまくなるためには,技術認識が必要だし,『未上手な子たち』との交流で双方が技術獲得できると考えています』。

 

こうあっさり書かれると体育の授業も難しくないじゃんって思うのだが,それだけではない仕掛けが必ずあるはずで,そこが知りたいところ。

 

バレーボールは,ラリーを続けるという目的と,ラリーを切るという二つの矛盾するような目的がある。

切る面白さと,切られない面白さだ。

この切る,切られない面白さを味わうためには,アタック(スパイク)から始めるという。

しかも,この高校分科会の発想が面白いのは,Aクイックから始めるというところだ。

 

Aクイックなんて,「難しい」と思うでしょ。

でも,理屈を聞けば納得できるのだ。

オープンのスパイクも含めて何が難しいのか,それは時間と空間の二つを一致させることなのだ。

「時間と空間」ってカントのア・プリオリな認識だね。

 

いやいや,要するに「いつ,どこで」が難しいということだ。

だから,「スパイクを打つ」ためには,「いつ,どこで」打つのかをまず「わかる」必要がある。

しかし,それは飛んでくるボールに訊いてくれというところもある。

待っていればいいものでもなく,自分も跳んで打つということもある。

いずれにしても,この二つが難しいので,どっちかを無くしてしまえばいいと考えるわけ。

それで,空間(どこに)の方を固定するのだ。

Aクイックというのは,ある場所のある高さにボールが来るので,それに合わせてスパイクをするという発想に立つ。

 

しかも,ネットの前に立って,右利きは右足→左足と引いてそこに構えておく。

ここまで指導するのだ。

以前,高跳びのめあて学習で,走り始める場所と踏み切り足が合っていなくて困っている子がいた。

反対側から踏み切らないといけないという指導がなかったのだ。

だって,その授業の目的は,「できなくても,楽しめる」だったから。

いや,それでは楽しめないでしょ。

 

高校生でも,これだけ丁寧にやれば,みんながスパイクが打てるようになる。

いわんや小学校や中学生をや。

もちろん,授業の目標との関わりで,何は教えて何は考えさせるのかがあってよいのだが。

 

こういう丁寧な指導によって,アタック率(=1ゲームあたり,つまり両チームのスパイク総数/全員プレー数=総得点数=総サーブ数)が1を越えるゲームも出てきた。

これは驚異的な数字だ。

他にもルール変更をしているとは思うのだが,そこがよくわからない。

 

もう一つ,新井さんがやっているのが,「ゲームストップ・アンド・インタビュー」というものだ。

これは,ある地点でゲームをとめて,今何を考えていてそうしたのか,を訊いていくのだ。

そうすると,お互いに考えていたことのズレが浮き彫りになり,そこから次にどうしていこうかを考えることができるのだ。

 

前に紹介した堀江さんのバスケットボールの下敷きが,もしかしたら僕の実践であったように,新井さんは,高校分科会の成果を用いつつも,中村敏雄さんの実践を下敷きにしていることがわかる。

 

ところで,このブログでも何回か紹介しているが,八丈島の菊池浄先生から,末吉小学校のことを綴った原稿が送られてきた。

A4で12枚の大部なものだ。

これはまた紹介したいが,ここで心電図が生み出されたという小学校のその実践の当事者なのだ。

これは,東京の堀江さんもこの号に書かれているのだが,異口同音というのか,同じようなことをやや違う語りで書かれている。

 

こういう特集だからこそ,70年代の研究と80年代に「できる,わかる」そして今の「わかる,できる,分かち伝える」という言い方が成立するまでの内外の様子を,ほどよいコミットメントとデタッチメントで書いた論考のようなものがほしいところだ。

僕らの先輩は,なんで子どもの「わかる」を大切にしてきたのか。

多分,多様な興味があって,1つに決めることはできないのだろう。

 

この問いに新井さんは次のように答えている。

授業の主人公は教師ではなく,生徒たちであり,出発点も生徒たちだ。

「生徒が自主的で主体的に考えて,工夫をしながら学び合わせたい。そのために,ゲーム分析やゲームストップ・インタビューを使い『わかる』『できる』を味わわせていきたい」。

 

中村さんは,「バレーボールらしさ」を担保するために,ルール変更をするのであるが,その時のデータにするため。

もちろん,これでうまくなることがわかることでもある。

 

僕は,授業でやるバレーだから,勝ち負け以外の競争を仕組まないといけないと思ってデータを取る。

つまり,どれだけ練習をやっても,ゲームになると練習とは違う勝つためのバレーが出現してしまうことはよくある。

そうならないために,スコアをつけて,三段攻撃率,アタック率,そしてスパイク成功者数などを出して,勝敗以外にもそれらを競うようにするのだ。

 

他の実践でも,このことを念頭において読んでいきたいと思います。

 

 

 

 

 

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