「言語ゲーム」から考える
こんにちは。石田智巳です。
今日は,ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の考えに触れたので,そこからいろいろ考えてみたいと思います。
実は,何が言いたいのかよくわかっていないのですが,何とか話を展開してみたいと思います。
では,どうぞ。
「言語ゲーム」という考え方は,今から20年以上前に知ったが,その時は何とも思わなかった。
それもそのはずで,そもそもヴィトゲンシュタインが,何を問題にして,それを言い始めたのかがわからなかったから。
ヴィトゲンシュタインの本を読んだわけでもないし,読もうと思ったこともなかった。
でも,ソシュールのラング(国語)とパロール(言語行為)の関係を考えていたときに,「言語ゲーム」の考え方との違いが何かについて気になり始めた。
言語ゲームについては,後で説明するが,サッカーのゲームとルールのことだと今は思っておいてほしい。
そこで,橋爪大三郎さんの『言語ゲームと社会理論』(けい草書房)を読んでみた。
そこには,冒頭に,「難しすぎる内容をできるだけ簡単に書いてみた」とあった。
しかし,読んだけどよくわからなかった。
いや,まったくわからないということではなかったが,ソシュールとの関係がよくわからなかったのだ。
それと,カタイ。
その後,やはり同じ橋爪さんの『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書)を読んだ。
これは同じモチーフで書かれているが,こちらの方が読みやすい。
ただ、「論理哲学論考」の説明に数列が出てくるので,ここは読み進めないので,とばす。
宗教の社会学にも明るい橋爪さんだけあって,キリスト教とユダヤ教の違い,仏教との違いなどの話も出てくる。
そして,冒頭にヒトラーとヴィトゲンシュタインが同じ学校にいたことから,ヴィトゲンシュタインがあの時代に何であんなことを考えていたのかが解き明かされる。
そしてヒトラーやナチスの論理との対比で話が進んでいくところが新しい。
さて,ソシュールは,言語学者として,どの言語の中にもある一般的な構造(モデル)を取り出そうとした。
注目したのは,言語の一般的な構造の方だ。
このラングがルールで,パロールは実践なのだが,ここが言語ゲームと似ている。
そして,ラング→パロールという一方向だけではなく,パロールがラングに及ぼす影響についても考えようとした。
つまり,構造は普遍ではなく,変化を伴うという考え方だ。
サッカーだって,ずっと実践していると実践がルールを変えることもある。
また,言葉は事物を表す道具(だけ)ではなく,言葉によって世界に切れ目を入れていくことが,ラングにとっても,個人的なラングにとっても大切であり,その意味で,言葉は認識だというのだ。
若者の言葉づかいではないが,新しい言い回しによって,新しい世界の見方,語り方を獲得するのだ。
以前,カライもアツイもホットだというのはおかしいと書いたが,新しい言葉が流通しないと(する必要がないと),いつまでもこのまま。
前に,メルロ=ポンティがパロールの現象学を試みたと書いたが,それと似ているかもしれない。
メルロ=ポンティの場合,ラングとパロールの間に,個人的なラングともいうべき身体図式をおく。
ヴィトゲンシュタインは,言葉と世界が対応するという自分の提出した「写像理論」では説明できないこと(意味と価値)は,かつては「語らない」といっていた。
しかし,語りはじめてみたら,言語ゲームというアイディアに行き着いたということだ。
言語ゲームとは,パロールのことだろうといったが,私たちは論理的な言葉づかいをしないでも,お互いに了解できるということを説明している。
ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』では有名な話として,石工と助手の2人と4種類の石材(ブロック,柱,タイル,梁)で,何かを建築するという場面が,最初に書かれている。
このとき,4つの言葉(名詞)しかないが,それでも石工が何かを怒鳴れば,助手は石工が必要な「何かを,どうしてほしいのか」を理解して会話が成立する。
会話が成立するということは,そこに何らかのルールがあるということだ。
それは,そこでしか通用しないルールかもしれない。
ゲーム中に,ルールそのものも変わっていくようなルールでしかないのかもしれない。
世界中には,そういったいろいろなルールで遂行される言語ゲームがあちこちで展開されていると考えるわけだ。
というか,すべては言語ゲームで,そこにその都度意味が生まれると考えるのだ。
居酒屋で「おねえさん。ビール」といえば,細かいことをいわなくても,ビールは出てくる(生かビンかって?細かいことはいわないこと)。
おねえさんは,間違っても「ビールがどうしたの?」とは言わない。
それも言語ゲームだとすれば,子どものころに,「お母さん。水」といって,母親に「お水がどうしたの?」とか「『コップに水を入れてきてください』っていいなさい」とか,叱られた経験を持つ人も少なくないと思う。
「お母さん。お水をコップに一杯ください」と涼しい顔をしていうのと,気分悪そうに,「お母さん。水」というのは,モードが違うけど,伝えたいことは同じ。
前者には,「自分でしなさい」と答えられる。
後者には,「どうしたの?」と心配される。
ナラティヴを勉強していると,言葉には「酒を飲みすぎると,翌日,体調が悪くなる」という一般的な言い方(野口裕二さんは,論理科学モードとはいわずに,セオリーモードといった)と,「昨日飲み過ぎたので,今日は体調が悪い」という私的な言い方(ナラティヴ・モード)が区別されることがわかるのだが,それと似てなくもない。
これも有名な言い方かもしれないが,「僕はウナギだ」だ。
これは,なんかの劇をやる場合に「僕はウナギの役をやる」という意味でも使えるし,今日のお昼はウナ丼を食べると決めていた場合にも言えるだろう。
決して,「I am an eel.」ではない。
比喩なんかもそうかもしれない。
そうなると,コノーテーションも同じだ。
隠語のような言い方ということで。
そうであるならば,ソシュールのシニフィエが,現実の世界の位置ではなく,言語体系に占める位置であること,パロールの実践によって新たな切れ目を入れ続けていく(意味が変化すること),それによりラングが変化することもやはり同じようなことを言っているのだろう。
ただ,ラングというのは国語(ある言語)のことだから,パロールはその言語のルールに規定される(パロールもラングを規定する)ということだが,言語ゲームには,そのゲームのルールがあると云うことになる。
そのルールは明文化できないだろうし、むしろある文脈だとか、その都度の言葉の使われ方によってルールが生み出されるという感じか。
ここが同じようで,違うところかもしれない。
この辺の手触りの違いがよくわからない。
ちょっと,くどくどしてきた。
橋爪さんは(というか,一般的には),言語ゲームとは,「ルールに従った人々のふるまい」だという。
だから,了解するとは,「ふるまいの一致」のことを指す。
もちろん,ふるまいはいつも一致するわけではないし,軽いズレもあれば,誤解もある。
ここが重要で,誤解というか差異ががあるから,一致させようと努力することになる。
これが普通の人間のやること。
セオリーモードは,誰もが一致するような言葉づかいであり,意味や価値は問題にしない。
だから,科学の領域が成り立つけど,人の認識はもっとダイナミックということだ。
完全に一致する領域と,多くに共有される宗教のような一致の仕方,教育や政治や経済など,なかなか一致しない領域があること。
フッサールの本質学は,一致の条件を探ることにある(んだっけ?)。
そして,一致するかしないかだ。
これもよく思うのだが,私たちは正しいことを言う人に惹かれるのでは決してない。
おそらく逆で,中味に関わってではなく,その人に「惹かれる」ことが先にあって,その後に,その人の言うことに自分の考え方を同期させていくのだろう。
新聞の立場や,教育を語る立場によって,早い話がイデオロギー的な立場によって,話す中味や書く中味は違う。
だから,中味だけみたら,全然共感できないことはある。
しかし,それを書いた人の政治的立場を知らずに,ただ話しているととても「いい人」だと思うことがあるのも事実だ。
人が何かに惹かれるのは,内容の善し悪しよりも,その人やその集まりの雰囲気の方が先だと思う。
だから,たまたまこのA大学のB先生のところに行ったから,Cという政治的な立場で研究をする。
同じ人が,D大学のE先生のところに行っていたら,Fという政治的な立場(CとFは,しばしば対立する)で研究をし始めることは充分にあり得る。
だから,一致するとかしないとかではなく,単純に,その人が好きだったら一致させたいし,好きでなかったら一致させたくない,ということだと思う。
言語ゲームの話から,実践記録の話を展開したかったのですが,こんな話になりました。
でも,最後の話は,客観的な認識なんてなかなかないということで,そのことを前から考えていていて,どこかで「王様の耳はロバの耳」的に言っておきたかったので,ここでつぶやいてしまいました。