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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育同志会の6月全国常任委員会

こんにちは。石田智巳です。

 
昨日は,研究局会議の様子で終わってしまいました。
本当は,常任委員会の議論を紹介しようと思っていたのですが,総括と方針のこと,冬大会のことを書いていたら,いろいろな考えが頭の中に飛来してきました。
そのことを逃さずに書いていたら,いつのまにか約3000字となり,終了と相成りました。
 
今日は,常任委員会の様子というか,その後読んでいた本などで考えが浮かんできたので,そのことを捕まえて書いてみたいと思います。
では,どうぞ。
 
常任委員会は,土曜日の14時から開催される。
委員長挨拶があって,各部局のこの間の取り組みなどが報告される。
委員長挨拶では,今の国会の迷走ぶり(18歳選挙法,戦争法)が話題に上がった。
そうしたところ,それにかぶせるように,体育同志会として,あるいは常任委員会として声明を出すべきではないかという声も出てきた。
 
体育同志会は,憲法教育基本法(47)をにらんで,「私たちの誓い」をベースにしている団体だから,「安全保障関連法案に反対する学者の会」や憲法学者等の関連団体が行っているように,アピールを行ってもよいのではないかということだ。
実は,これを総会の議題に載せるかどうかを,日曜日に審議したのだが,僕は二日目は欠席のためどうなったかはわからず。
 
各部局の経過報告,60周年記念集会の総括,そして,出版経営局の総括と方針,『たのしい体育・スポーツ』に関わった常任委員会提案などの審議を経て,大阪みのお大会の基調提案の検討が行われた。
さらりと書いてスルーしているが,60周年記念集会の総括も,『たのスポ』の提案なども本当は丁寧に書いておきたいのだが,それをすると自分が一番書きたいことが書けなくなるし,総会で提案される内容をここでリークするのも変なので,ここではやはりスルーする。
 
昨日のブログでは,みのお大会の基調提案を読み切れなかったというか,別の本を読んでいて,提案を読まなかったことを書いた。
で,今目を通すとだいぶすっきりしている。
前は同じことの繰り返しがあったり,「こなれなさ」があったりした。
常任委員会では,全部を順番に読まずに,担当を決めて,時間を区切って読んで気づいた点を出しあうという方法で検討した。
 
いろいろな意見が出たが,それはみのお大会の基調提案作成委員会のメンバーがつくろうとしている物語が,僕や他の常任のつくっている物語とやや違うところから来るのであろう。
みなさん,いろいろなこだわりを持っているので,ついつい気になる部分が出てくるのだ。
 
それはそれでいいことだし,そうやって出されることで,違う物語があることが確認される。
何度も言うけど,もちろん事実誤認もあるだろうが,人はそれぞれ違う物語を持っていて,違いがあることが大切なのだ。
実はこのことが,いいたかったことなのだ。
後で少し展開する。
 
いろいろな意見が出たが,その意見が,みのお大会のコーディネータ-の物語に引っかかれば修正され,引っかからなければそのままになるのだろう。
それはそれでいいのだ。
 
その後,編集委員会の成果と方針が出された。
実はこのことに疑問を持つと同時に,すぐにその疑問が氷解した。
疑問というのは,前に同じ思いを持ったことがあって,それをすっかり忘れていて,そのときに思い出したことだ。
要するに,今の編集長はほぼ間違いなく8月の人事で代わる。
もう少しいえば,組織が変わるのだ。
 
しかし,総括と方針は前の編集長が立てることになっている。
次の編集長が立てるわけではない。
僕が研究局長になったときもそうだったが,前の局長が立てた方針とは違うところに重点を置いた。
それははじめからそうしようと思っていたわけではない。
自分がその立場になって,実際に動かしてみたときに,「課題はこれだ」と気づいたのだ。
 
僕は前の局長の時にも研究局のメンバーだったが,そしてそのときに方針作りに参画していたが,それでも局長としてスタートしてみれば ,違うところに重点を置いたということだ。
僕の物語が前に出てきたのだが,そういうものだと思う。
 
で,その疑問が氷解したというのは,次のことだ。
だから,方針はこの二年の到達目標を厳密に立ててはいけないということだ。
そして,こっちが重要なのだが,局長とはいえども,誰でもできるような制度になっていないといけないということだ。
例外的に優秀で,勤勉な人格だからできるというような制度であって,方針だとすれば,次にやる人によっては,まったくとりつく島がないことになる。
その場合,全くやる気がない人を選ぶということでない限り,どう考えても人の問題ではなく,方針の側の問題なのだ。
 
だから,緩く広く方針を立てて,それとは違う事態にも対応できるようにして,必要とあらば,重点を新しい局長(編集長)が決めればよいということになる。
そして,その総括をすることが大切なのだ。
 
それで,編集委員会の方針であるが,やはり僕は実践記録を充実させるのが体育同志会らしさだと思う。
これは少しだけ述べておいた。
そして,例えば合併号のような分厚い号であったとしても,長編実践記録ではなく,4頁か多くても6頁にまとめてほしいと思うのだ。
短ければ,何を書くべきなのかが絞られる。
読み手もおぼれずにすむ(かもしれない)。
 
矢部さんや制野さんの実践記録,大津さんや上野山さんの実践記録は,読み物としてもすぐれている。
それはなぜなのかを丁寧に解きほぐす必要があるのだが,少なくとも自分がやったことの意味を自分がよくわかっているし,どんな主張を込めているのかが明確なのだ。
それと同時に,さっきの話ではないが,物語の構造のようなものがある。
そのコードを探せば,落ちていくところも何となくわかるようになる。
そういうものなのだ。
 
それと,これは内田樹さんの『街場の文体論』を読んでいて思ったのだが,誰に向けて書いているのかを自分なりに持つことが大切なのだろう。
宮崎駿さんは,日本の子どもたちに向けて映画を作っているという。
その結果,ワールドワイドな人気を獲得した。
ワールドワイドを目指したわけではない。
話は逆なのだ。
さらに,内田さんは「『万人向けのメッセージ』は誰にも届かない」ともいっている。
 
だから,『たのスポ』の原稿も,誰かに向けて書けばよいということだ。
内田さんによれば,日本人だけが例外的に,学者が書いた難解な文章を,平易な言葉で専門性を持たない人たちに要約するような入門書を書く人と,読む人がいるという。
フランスでは,学者が「難しいよ~」っていう人に向けて書くという習慣はないそうだ。
そういう人たちにははじめから読む資格がないというか,文化資本的階層が違うということだから。
 
だから,自戒を込めていうのだが,学者のエクリチュールで,ワンナップ(up)なポジションにたち,ワンダウン(down)なポジションに読者を想定して書くという習慣をやめなければならない。
僕の場合,ブログの読者に書くように書けばよいのだが,それを読んでもらうための努力もさらにする必要がある。
 
さいわい,『たのスポ』9月号の原稿は,ある人から「原稿がブログ調になってきた」とお褒め(?)の言葉をいただき,『体育科教育』の連載も,「ようやく読者が定まってきたようですね」とやはりお褒め(?)の言葉をいただいた。
 
つまり,私の物語をそのまま出すのではなく,こうすればあなたの物語に引っかかるかもということを考えながら,あなたに向かって書くことが大切になる。
中身がどれだけ素晴らしくても,誰も読まないような原稿なら,書かれなくても同じなのだから。
 
しかし,そうはいっても,学会発表や学術論文になるととたんに,エクリチュールが変わってしまうのだろうね。
でもいいのか。
これを理解しようとしてくれる人に向けて書けばいいのだから。
 
話が全く常任委員会の中身とは関係がなくなってしまった。
研究局の総括と方針については,昨日書いたとおり。
7時を過ぎて,食事会に出かけた。
空はまだ明るくて,美しかった。

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例によって中華料理。

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2時間で2680円。
安いです。
腹一杯食べて呑みました。
 
 
 
 
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