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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『体育科教育』7月号が届きました。 体育とアクティブ・ラーニング

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は『体育科教育』2015年7月号が届いたので,ざっと眺めてみました。

特集は「体育で取り組むアクティブ・ラーニング」です。

いろいろ思うことがありましたので,ブログに書くことにしてみます。

では,どうぞ。

 

『体育科教育』が来たから書くといっても,連載のことを書くつもりはない。

と思ったけど,せっかくだから一言だけ。

今回は,第4回「実践記録の戦後復興と城丸章夫の怒り」だったが,タイトルは若干変えたのだった。

教科研(教育科学研究会)が,実践記録をもとにすぐれた実践を一般化することを任務に,戦後復興を遂げたこと,城丸章夫さんが体育科教育界と体育関連雑誌に向けて,肘鉄を食らわしたことを書いている。

終わり。

 

さて,このブログにアクティブ・ラーニングのことを以前書いたと思って,アーカイブをみたら,理論は誰が作るのか(3月28日) と学習指導要領の改訂が諮問されました (11月29日)とに書いていた。

直接,アクティブ・ラーニングのことを書いたのではないが,自分でいうのも何だけど,読み返すといいことが書かれている。

あのときは頭がさえていたんだね。

 

大学教育におけるアクティブ・ラーニングとは,中教審の答申(2012年8月)によれば,次のように定義される。

「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり,学修者の能動的な学習への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって,認知的,倫理的,社会的能力,教養,知識,経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習,問題解決学習,調査学習等が含まれるが,教室内でのグループ・ディスカッション,ディベート,グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」とされている(引用は,山地「アクティブラーニングとは何か」,『体育科教育』7月号,10頁。以下引用はこの雑誌から)。

 

その具体的方法は,山地さんの11頁の図に示されていてわかりやすい。

反転授業などは,構造の自由度が低くて,狭いとされてあんまり評価はよくなさそうだ。

でも,11月にも書いたことだが,企業が儲けをねらって学校にタブレットを導入することになっている。

子どもチャレンジだって今は,タブレットを使って問題を解き,ネットで送信する時代だ。

 

さて,ここからは,「『アクティブ・ラーニングと体育』私はこう思う」を見ておきたい。

白旗さんは,「ここで気になるのは,現行学習指導要領では,目標と内容は明確に示すが,指導方法は学校の教員にお任せするとしていたはずである」と述べる(21頁)。

その後で「学力の重要な要素がなかなか浸透しないため,こうした指導法を示さざるを得なかったのではないか」とも述べている。

 ややあきらめ的な発言である。

 

僕はこの部分はすごく大切だと思うのだ。

学習指導要領は,大綱的な基準だったのだが,この通りにやらないといけないとされ,内容や時間が示された。

それが今回は,方法までも示されようとしている。

 

前にも書いたことだが,現場をないがしろにしている。

指導要領は中学校で始まって4年目。

すでに,内容は「詰め込み」とされている。

今の指導要領がいいというロジックだと,新しい指導要領の目玉がなくなる。

だから,「今の要領はよくない」といわなけばならない。

 

「今の要領はよくない」と言わないのであれば,言い方はもう一つ。

「現場がやってくれない」。「あるいは,現場がさぼっている」だ。

しかし考えてみればわかると思うが,現場は日々子どもと向き合って努力している。

教育政策を作る部署は,最先端の情報を集めて,「これまでよりも良いもの」を作ろうとする。

教員や子どもの能力以上のものを求めているのではないか。

かつて,国研の方の話の中に,「後には戻れない」とあった。

もう少し待ってあげたら?と思ったりする。

 

今の前の指導要領は,いわゆる「ゆとり」だったわけでしょ。

学習者中心だったが,これもうまくいかなかった。

これは,理念的によくなかったと僕は思う。

いつも書くが,新自由主義的二極格差,自己責任の学習観だったと思う。

 

本来,教師はきちんと教える力量をつけるべきで,支援とかを前に出すべきではないか。

力量はつけるが,それをどう発揮するかは,矛盾した言い方に聞こえるかもしれないけど,やる本人が決めればよい。

でも,力量がなければ,教えたくても教えられないのだ。

 

その力量をもっていても,敢えて教えずに,子どもに考えさせることもできる。

子どもがどこにつまずくのかを知っているからこそ,その部分は教師が教えるとか,逆に,敢えてその部分は発問形式にして考えさせるだとか,手立てを取ることができる。

 

といったことを,峠さんも,藤井千春さんの文章を引用しながら,教えるべきことと教えるべき方法を持つことの大切さを述べている。

ところで,この人,富山市立堀川小学校の方だ。

授業研究をかじったことのある人なら,この学校は知っているはずだ。

 

さて,田中委員長も執筆している。

田中委員長の構成は面白くて,アクティブ・ラーニングというときの,アクティブとは何を指すのかという問いから入る。

ただ,子どもが夢中になって遊んでいることをアクティブ・ラーニングというのか,ということだ。

 

辞書的に,アクティブ=活動的であるならば,体育はアクティブだ。

しかし,授業に集中して,頭を活動させていれば,講義形式だってアクティブ・ラーニングとなるのだ。

身体活動も同じなわけである。

 

だから,パッシブ・ラーニングを考えてみればわかりやすいのだろう。

活動を行っていても,何の思考も働かなければパッシブ。

講義で知識の習得が暗記的になされればパッシブ。

 

これは,その後の鈴木秀人さんも同じような発想をしている。

なんでやるのかわからないけど,やらされていればパッシブ。

ただ,学びの意味は後でわかるものだから,何でやるのかという問いへの評価は難しい。

むしろ,教員が何でこれをやらせているのか意味不明な場合に,パッシブになるのだろう。

 

構成主義がアクティブであって,反映主義(そんないいかたある?)がパッシブ。

これがまず基本かな。

要するに,自分の持っている知識や技能や身体と相談しながらの活動のことだ。

それとは関係なく注入,貯金通帳に記載されればパッシブ。

 

田中委員長は,出原さんの田植えラインの短距離走を他者と協同でアクティブに活動する例としてあげている。

それをいえば,上野山さんの健康教育もアクティブだ。

と考えれば,これまでもアクティブ・ラーニングをやってきたわけで何の問題もない。

 

鈴木さんは「運動を行う主体である子どもがその運動に見出す意味と教師の運動のとらえ方がずれているという問題」を指摘する。

子どもが何とか挑戦しているのに,教師は動きの工夫を求める。

すると,子どもからすれば,多様な動きの工夫を強制されることになる。

なるほど。

 

僕が問題だと思うのは,鈴木さんのとらえ方とやや似ているのだが,次のことだ。

子どものアクティブな学びを組織することに腐心することは,大切だろう。

パッシブな学びがいいわけではない。

 

しかし,それが,中教審,そして,文科省などの行政からいわれた時点で,それをやらねばならないというパッシブな学びが教員に発生するということだ。

かつて,佐藤学さんは,個性化重視の指導要領の時に,「個性化教育の画一的浸透」という矛盾を指摘した。

 

フレイレは,『被抑圧者の教育学』という本を書いた。

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教師が示す教育内容を無批判に受け取り,銀行預金型の知識をどんどんため込むパッシブな教育をうけ,試験でいい点を取ると優秀とされる教育を批判した。

それは,「分割統治」という被抑圧者の間で対立させて団結させないやり方と,「文化的侵略」という抑圧者の文化の方が被抑圧者のものよりすぐれているという考えが,そこには伏流しているという。

 

日本の場合,教師もまた被抑圧者として,常に上から教育内容をいただいて,批判的に検討することができなくなっている。

この構造が問題なのだ。

かつて,同じような問題意識で,新自由主義への抵抗という教育学が必要だということを書いた。

だから,新自由主義を推進する政府が立てた目標を,具体化するような教育学ではダメなのだ。

 

つまり,アクティブ・ラーニングを云々する以前に,アクティブ・ラーニングが登場するその仕方がダメなのだ。

そこを下から批判することができなければ,教員は被抑圧者のままなのだ。

 

フレイレは,マルクスが教育を書くとこうなるのか,というような書き方をしています。

被抑圧者の解放については,機会があれば書いてみたいと思います。

 

 

 

 

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