体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

教育実習でつながった話2 メルロ=ポンティとバルト

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日は,教育実習でいろいろとつながったという話を書きました。

多分最後まで読んだ人は,5人もいなかったのではないかと思います。

今日は続きになりますが,書く前はやっぱり不安ですね。

最後には,実践記録の話が出てくるのですが,もしかしたら,到達者0人になるかもしれません。

 

これもうまく伝えることができるかどうか。

では,どうぞ。

 

昨日の話は,中学校に教育実習に行っている学生を訪問したときの話だ。

参観した授業は,国語の説明文であった。

ルビンの壺,老婆と若い女性,どくろと鏡に映った女性と,両義的な絵を見て,見え方は一つではないということを注意するような話。

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僕はこの話を聞いて,途中から自分の頭の中がぐるぐる回りっぱなしだった。

昨日書いたのは,ルビンの壺が,壺(杯)と向かい合う人の顔のどちらにもみえるということであった。

これを,メルロ=ポンティは,ゲシュタルトは自然のなか,世界のなかにあるのではなく,我々の意識の側の問題だと言った。

 

僕はメルロ=ポンティを読んでいたときには,構造主義のことをよく知らなかったから,普通に,フッサール現象学の継承者だと思っていた。

しかし,明らかに構造主義的なのだ。

ここで簡単に認識論について触れておきたい。

 

フッサールが,デカルトのように疑っても疑っても疑いきれない何かを探すという方法を用いて,知覚(直観)は疑えないことを取り出した。

このフッサールの方法は,現象学的還元とか,エポケー(判断中止)などというが,これがわかりにくい。

 

デカルトは存在論として,意識的世界と広がりや延長の世界があることを示して見せた。

我思う,故に我ありだ。

これを方法的懐疑といったりする。

 

フッサールは,現象学の方法を用いて見出したのは,デカルトのような認識の基礎づけではない。

知覚の不可擬性だ。

この知覚直観が不可擬だということは,確かに私の外に存在があるということを私に告げるのだ。

 

ただし,疑えないということ=正しい認識を持つということではない。

知覚と同じように,何度思い出しても「2時集合」だと思い出されることは,疑うことができない。

本当は3時に約束していたとしても。

フッサールは,正しい認識,あるいは科学的認識や数学などの公理や定理などを否定しない。

そういう共通理解の高い分野に比べると,人文社会科学においては,様々な見解が出される。

フッサールは,それには様々な判断があるからという。

 

自分が知覚した中味は疑えないが,判断は疑える。

だから,判断中止(エポケー)するのだ。

ところが,メルロ=ポンティは,完全な還元は不可能だという。

しかし,知覚が疑えない理由は否定しない。

そしてその理由を,身体や身体図式に求める。

 

我々は,意識のレベルの土台となる身体のレベルで,普段は日常生活を営んでおり,心身の統合度の高い状態の場合,いちいち立ち止まらなくても,無意識にいろいろなことができる。

これが身体のレベル。

しかし,けがをして歩くのがつらいだとか,よくわからない問題にあたったときに,統合度が崩れる。

そのときに,意識が顔を出す。

ヴィゴツキーじゃないけど,困ったことがあったときに思考が動き出すと考えるわけだ。

 

ここが非常にわかりやすい反面,フッサール現象学の方法,すなわち主観から出発するという方法に対して,主観を枠づける身体(客観)を持ち出したために,フッサールの考え方からすれば,主観-客観図式に戻してしまったことになる。

ということを,竹田青嗣さんは『現象学入門』(NHKブックス,1989)に書いていた。

ここら辺は,厳密な学問の基礎づけへの企てに対して,「あいまい」な哲学で乗り越えようとしたわけだが,僕にはそれに対しては竹田さんのように評価はできない。

よくわからないから。

 

でも,メルロ=ポンティの心身関係論は,体育授業を考えるときにも有効だ。

できないことを何度やってもできない。

できることは何度やってもできる。

できないからできるへの変化は,環境を整えるのと同時に,何をどう意識させるのかに関わってくる。

 

戻ろう。

メルロ=ポンティ的には,知覚が疑えないこと,そして同じものを見ても人によって違う意味が付与されるのは,まさに意識の手前にある身体のレベルでの経験の違いでもある。

単純にサイズの違いもそうだ。

背の高い人にとって座ると知覚されるものでも,背の低い人にとっては座ると知覚されないというのは,ギブソンアフォーダンス論とも通ずる。

それと同じで,個人のレベル,種のレベルで,同じものでも違った意味に知覚される。

 

そうそう。

授業が終わったあとに,その学生に考えていたことを簡単に話した。

それで,だまし絵が重要なのは,両方の見方ができることだけではない。

意味は自然のなかにあるのではなく,私との関係で意味が浮かび上がるということなのだ。

これを構成主義といったりする。

 

国語の授業だから,ついでに,バルトのテクスト論のような話も飛び出した。

説明文の場合,作者のいいたいことがあって,それは何か?どんなメッセージを伝えようとしているのか?という問いは成り立つような気がする。

それがわからなかったら,コミュニケーションができないということだから。

 

しかし,小説などの作品では,作者が言いたいことは何か?とは問えないといったのが,ロラン・バルトであった。

バルトは,私たちが語る言葉は,それ以前に誰かが語った言葉であって,その起源はたどれないという。

学術論文とかでは,引用する場合,括弧をつけて引用符を付して,巻末に文献を載せておく。

 

しかし,私が名古屋弁をしゃべるのも(しゃべらないけど),私が恋をしてそれを表現するのも,誰かがかつてしゃべって流通した言葉をしゃべっているのだ。

もし,その都度私がそういう状況で言葉を発明していたら,意味不明になって,受け取る側に理解してもらえないだろう。

だから,バルトはそのことを指して「引用符のない引用」と呼んだ。

 

そのバルトは,作品をテクストと呼んで,このテクストは書き手の意味よりも,読み手がテクストに出会ったときに立ち上がる意味を問題にする。

書き手は,過去の引用符のない引用を使って,自分の考えを語る。

受け手は,それを自分にとっての意味として引き取り,新しい考えを構成する。

だから,読み手が新しい意味,自分にとっての意味を構成した瞬間に,書き手に転化するという(書くわけではないが,書いてみるとわかる)。

こうして,伝言ゲームのように,ちょっとずつ表現を変えながら,人びとに伝わっていく。

 

これって,ルビンの壺のようなだまし絵がどう見えるのかとか,芸術家の営み(作品)を見て,立ち上がる意味を問題にするのと同じでしょ。

正しいか間違っているかではない。

メルロ=ポンティは,カトリックらしく視覚を問題にした。

『見えるものと見えないもの』は,絵画について論じていた。

『眼と精神』という本もある。

 

バルトは,文学について論じている。

同じような考え方で。

 

さらに,昨日も説明したように,メルロ=ポンティの身体図式という考え方のアイディアは,ソシュールのラング(国語)とパロール(言語行為)のアナロジーでいえば,身体図式と行為の関係になるのだ。

つまり,行為はいちいち大脳中枢を通って云々という客観主義的な説明ではなく,個々人の身体に沈殿しているあるやり方によってなされるということである。

野球で身につけた投げ方で,他のボールを投げたり,ヤリを投げたりするところから始まる。

それは,新しい行為(例えば新しい技能が身につく)が形成されると,身体図式へも影響が出てくるのだ。

これも,ラングとパロールの関係と同じである。

 

さらに,バルトはスティル(スタイル)という言葉を用いて,人間の言語行為をラングとスティルとエクリチュールに分けて説明する。

スティルとは,好きな書き方とか癖とかのことであるが,これなんかも身体図式と同じことを言っているのだ。

バルトの場合は,書いた後にスティルが痕跡のように残ると述べるわけであり,その意味ではメルロ=ポンティの身体図式も,身体図式があるというよりは,痕跡が残るそのことを説明するために,身体図式が持ち出されるという方が正しいような気もする。

実体概念ではなく,説明に用いられるのだ。

 

勝手につながっているだけなのだが,驚くことが多い。

そして,メルロ=ポンティを読んでいて,また驚いたことがあった。

最後にこのことを紹介して終わる。

 

先に,フッサールは科学的な知見というものを否定はしないといったが,僕が読んだ感じでは,メルロ=ポンティの方が,どちらかというと科学を批判的に捉えているように思える。

でもそれは,科学的な本質を念頭に置いた上で,現象を説明するからだ。

そうではなくて,生き生きとした知覚の場に立ち返れということをメルロ=ポンティはいう。

 

かつて,実証的,数量的な授業研究にパンチを食らわせたのは佐藤学さんだったということを書いた。

授業は,具体的な子どもと教師が,教室という一定の雰囲気や文脈を持った場で,そのときどきに起こることに対して判断しながら進行していく,一回性を原則とする営みである。

そこは,生き生きとした知覚が語られる場なのだ。

実践記録は,科学ではなく,知覚が語られている。

 

僕は自分ではよくわからなかったが,ある日突然,実践記録へのこだわりを持ったのは,メルロ=ポンティの教えがそこには伏流していたのだった。

そんなことがわかってとても嬉しいです。

といってるそのことは,明らかに後付けというやつですね。

でも,仕方がないのです。

書いた後に,そういう錯覚をして納得できるのだから。

 

 

 

 

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