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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 6月号(№292) 森論考を読む前に

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』6月号の森論考を読もうと思いましたが,路線変更です。

この論考を読む前に,戦後の体育で「からだ」を問題にする経緯について触れたいと思います。

では,どうぞ。

 

ちょうど,『体育科教育』の連載では,佐々木賢太郎さんの実践記録から,その特徴を描き出すという内容の原稿を書いて,編集のK口さんに送ったところだった。

体育において「からだづくり」を主張したのは,佐々木賢太郎さんなのだ。

佐々木さんを含めた当時の教育科学研究会(教科研)の体育実践から,体育の課題を「からだづくり」にすることになったという方が正確だろうか。

 

国分一太郎さんが,1952年の紀南作文教育研究会(紀南作教)の第1回大会で,佐々木さんの報告を聞いて,「命あってのものだね教育を忘れてはならない」といったという記録が残っている。

 国分さんは,佐々木さんの『体育の子』(新評論,1956)にも,「あとがき」で「この本についてのひとこと」を書いている。

写真は『体育の子』(新評論,1956)。

稀覯本だ。

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この国分さんの仕事と無着成恭さんの『山びこ学校』があったからこそ,戦後の生活綴方復興があり,実践記録運動が起こったのである。

当然,紀南作教が当初,「『教師の友』紀南グループ」として出発するときにも,国分,無着,そして寒川(道夫)らが意識されていた。

北のうねりを紀南の地にも起こそうとしたのであった。

 

さて,佐々木さんが,紀南作教に入会するのは,紀南作教を組織した真鍋精兵衛,藤田伍与の両氏が当時白浜小学校にいて,佐々木さんの実験学校による研究成果に対して,あるいは佐々木さんの実践そのものに対して,批判的な発言をしたことが原因であった。

佐々木さんは,調査研究をしていたわけだが,生徒の調査を行った研究の成果には生徒の生活の問題などがあるはずだが,そこが見えないわけである。

だから,その批判に素直に学んだ佐々木さんは,子どもの生活をとらえるべく生活綴方の世界へ身を投じることになる。

 

それと同時に,後に「体育の技術主義」と批判的にとらえる佐々木さん自身が行っていた実践をやめる。

そして,このときに実技の位置づけが見えないまま,生産や生産物を教えるという当時としてもやや変わった体育指導を行っていた。

 

ところが,佐々木さんは翌1953年の夏休みに実践記録を書いているなかで,自分の体育指導に方向性を見出す。

ここは重要なので,繰り返し強調していうと,「実践記録を書いているなかで」,自分の体育指導に方向性を見出したのだ。

方向性を見出したから,実践記録に書いたのではない。

 

その実践記録が,『体育の子』の12話「てつぼう運動のなかで」である。

これは,初出は『紀南教育』13号(1953年9月)であり,「体育ノート5」となっている。

この中で佐々木さんは,次のように書いている。

「やはり,体育指導は,授業として体育と言う教育を強くおし進めねばならない」(31頁)

これは,『体育の子』では,次のように書かれている。

「やはり,体育指導は,授業の形で体育という教育を強くおし進めねばならない」(159頁)

 

生活指導だけではなく,教科指導についても新たな方法を模索している。

子どもができるようになることは,子どもに自信を持たせるという意味において重要だと考えている。

一方で,体の弱い子,家庭の苦しい家の子がいるという現実もある。

そのため,その子らには鉄棒運動を強いることができないと葛藤するのであった。

 

「上手下手が決して人間を作るのに大切なことではなくて,その技術の中における科学的なそして生活的な見方と実践が大切だと言うことを教えるべき」であるという。

そして,鉄棒運動で教えるべき内容としては,

「なぜ人間はふれるのだろう。体の働きはどうなっているのだろう。どうしたら強くすることができるのだろうか。労働の中で,特にけんすい力のいるもの」などが,科学的かつ生活的な認識である(29頁)。

 

また,この記録のなかには,「全身体でうける感覚,それから大脳中枢における反射運動,こうした認識と思考の反ぷくこそ,てつぼうで一番正しく教えられることを二学期には希望を込めている」(31頁)と述べる部分がある。

 

こうして,佐々木さんは,からだを強くすることという実技の目標と,そのために「なぜ」「どうしたら」という認識的目標,さらに,運動感覚的な知覚をベースにした思考と運動の反復を大切にする。

これが佐々木さんの言う「からだづくり」なのである。

 

ただ,強く,逞しいからだを作るだけではだめだし,無目的な体力つくりも批判の対象になっていたのである。

なお,佐々木さんは,体育授業の前に,必ず体育の目的をいわしていたために,生徒から「目的先生」と呼ばれていたといっている。

 

そして,1953年2学期最初の実践記録は,「五感の実践活動」という保健の授業の記録である。

それと同じ時期には,「バスケットボールで学ばせる」と題した実践記録である。

こうして,体育と保健,さらには方法としての生活指導が結びついた形で,「からだづくり」実践が行われていく。

 

そこから,佐々木さんは実験的な実践,比較し検証する実践を展開していくことになる。

それは,ホッケーでボールを選んだり,スティックを作らせたりする実践,縄跳びで手の位置を変えてまわすことで,からだにどんな変化が起こるかを感じ取らせる実践,バネをきかした走りと,踵をつけた走りとの違いを探る実践などに結実していく。

 

当時の佐々木さんにとってのスポーツは,スポーツの世界に子どもを誘うためにあるのではなく,人間の命を守り,からだを強くするために作り替えられるべき存在だととらえられていた。

実はこのロジックは,体育同志会でも中村敏雄さんのロジックに近い。

中村さんは,「人間疎外」という言葉を使ったが。

 

なお,1953年の時点では,佐々木さんの中には,子どもたちが労働者になるためのからだづくりという発想はない。

転勤して,農村の学校に勤めるようになってから,マッサージの実践など,生活との関わりで実践をしているのである。

 

そして,教科研の「からだづくり」論に対して,体育同志会は運動文化論を主張していく。

実は,この両者が「からだ」をめぐって論争になったことがある。

円田-中村論争という誌上論争である。

体育同志会が(故丹下が),からだづくりを位置づけなかったことに文句が出て,それを中村敏雄さんが引き取って論争になった。

詳しいことは述べないが。

 

さて,ここまで予備知識を持った上で森論考へ行くことにしたい。

本当に読めるのでしょうか。

今から不安に思えてきました。

 

 

 

 

 

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