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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

民主主義の方法とは

新聞記事より 読書の記録

こんにちは。石田智巳です。

 

土曜日のブログは,高校の公民の授業を見て考えたことを書きました。

高校には道徳はありません。

それは公民があるからです(単純に言い切りすぎですが)。

昨日は,この授業を見て考えたことを書きましたが,今のご時世には,やはり政治的な素養というか,政治への関心が必要な気がします。

 

とはいえ,ブログで政治的な話を書こうとは思いません。

前にも書きましたが,僕の政治的な見解よりも,僕の体育・スポーツ観を書くことで自分の立場がわかる方がいいと思うからです。

 

でも,今日は,ちょうど新聞記事で,「民主的にものを決める」ことについて書かれていたのを読んで感銘を受けたので,そのことについて書きたいと思います。

では,どうぞ。

 

6月3日の毎日新聞夕刊の「特集ワイド」には,「この国はどこへ行こうとしているのか」があり,高橋源一郎さんが語っている。

というか,高橋さんが語った内容をもとに記者が構成している。

これがなかなかよかった。

 

当然,この国の行き先を憂う言説が飛び交うのは,集団的自衛権の行使を可能にする安保関連法案が審議入りしたからだ。

FBにも,この手の記事がよく流れてくる。

共産党の志位さんが,安倍さんをやり込めただとか,内田樹さんが鋭い切り口で新聞に語った内容だとか。

ちょっと前は,大阪都構想がそうだった。

こういうのには関心はあるのだが,「いいね」ボタンを押すのにはためらいがある。

 

さて,この記事の最後に,記者が次のように書いている。

『「平和安全法整備法案」に「国際平和支援法案」。

安倍政権は国会に提出した安保関連法案に「平和」と冠したが,審議を通じてその不透明さが暴露され「戦争に巻き込まれる」との懸念が広がっている。』

 

そうなんだよね。

「平和」って,誰も反対できない言葉だからこそ,簡単に使うと裏を感じるのだ。

あと「伝統」とかもね。

広島や長崎,あるいは沖縄では,いや,どこでもそうだと思うが,右の平和(正義)と左の平和(反戦)がある。

上からの平和と,下からの平和といった方がいいのかもしれない。

 

以前,沖縄のひめゆり部隊にいたという方から,悲惨な体験を聞いたことがある。

その方は,最後は声を震わせるように,真実を知ることの必要性を訴えていた。

沖縄で集団自決はなかったとか,南京大虐殺もなかったというような歴史修正主義はやはり上から目線(国の目線)で,そこにいた人たちに思いを馳せることはない。

 

戦争が終わったときに,30代半ばまでの戦争経験者の多くが,その後その体験を黙して語らなかったのは,加害者としてその後の平和の社会では語れないような内容が多く含まれていたからだというのは,内田樹さんの『昭和のエートス』だったかに書かれていた。

それは,団塊の世代の親世代になる。

もっと上の世代は,これが困ったことに,ためらいがなく,軍国主義を民主主義の看板に付け替えて,民主主義の旗を振って堂々と生きていった世代だ。

みんながそうではないと思うけど。

 

被害の経験は語れるが,加害の経験は呑み込んだままでいたいというのは心理的によくわかる。

だから,どうしても被害者の意識が表に出てくるが,加害者のそれは出てこない。

だからこそ,他国の被害者の話を丁寧に聞き取ることが必要になるのだろう。

 

あれ,話が全然違う方へいってしまった。

戻ろう。

高橋さんは,大震災からの4年間,民主主義の根本を知ろうと,J.J.ルソーの「社会契約論」を学び,古代ギリシャの統治制度に関する本を渉猟したという。

「渉猟する」という言い方がいいね。

 

そして,「個人の多様性を認め,大事にする精神」にたどり着く。

これだけ読めば,「当たり前だよね」って思うだろう。

だって,学級づくりだって,体育授業でのルール作りだってそうなんだから。

でも,「大事にする」というところの具体はなかなか見えない。

 

「みんな意見が違うってことは,何ごとも決まりにくいということです。でもそれでいい。全員違って仕方ないね,と確認することが民主主義の一番大切なところなんです」。

民主党は「決められない政治」といわれ退場して,代わって「決められる政治」を掲げて安倍政権が登場した。

変える保守というのも変だけど,小泉さんあたりから自民党は変革を目指す保守となった。

 

「多数決で勝った人が総取りで,勝手に憲法を解釈してもいいし,力で押して法律を変えてもいいんだよというのは民主主義でもなければ法治国家でもない。それを独裁制とか王政と呼ぶんです」。

閉塞感があったら,勇ましいことをいって一気に変えてくれる方になびく(投票する)のは心理としてわかるような気がする。

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しかし,一気に変えようとする人は,反対する人を非国民呼ばわりし,粛正しようとする(ということが写真の本には書いてある)。

そこまでは投票する側は,勘定に入れていないだろう。

 

「たぶん,『決められない政治』の方が幸せだろう。歴史上,民主主義を選んだ人々はそこにかけたのです。だから本来,民主主義を掲げる国に『決められる政治』は存在する方がおかしいんです」。

ルソーは,「多様性を認める」ことと「決める」こと,ある意味では矛盾するような命題の遂行方法を記しているという。

 

『問題に関わる「全員が意見を言い,それを全員が理解すること」が必要条件となる。

その上で「必要悪」として選挙をする。

そうやって決まったことには従うけれど,決まった意見を提案した人は「自分の意見に多くの人が反対している」のをよく知っている。

「だから遠慮する。僕なんかの意見が通っちゃってごめんねって。腰を低くして,相手に譲れるところは譲る」』

 

「安倍さんやこの国の空気は『自分の意見と異なるやつは消えろ』ですから」。

「民主主義は,これまで真の意味では実現したことのない,途方もないプロジェクトなんですよ」。

だから,独裁よりも民主主義を守ろうとするのは,「自分の意見を持ち,他者の意見も聞くことが,人を成長させることを経験的に知っているから」だという。

 

これを国家レベルで考えた場合に,戦争は避けられるともいう。

「『戦争をする』とは『相手を理解しない』と決心することだから。お互いにコミュニケーションが図れているうちは戦争なんて選ぶはずがないですよ」。

 

こう考えると,やはり道徳教育はある一定の価値へと導いていくという意味では,あまりよい方法ではないようだ。

なにしろ,道徳の教科化は,前の2006年の政権のときに安倍教育再生会議で出され,今回の「特別の教科化」も安倍再生実行会議で決めたのだから。

 

それよりも,要求の組織と決定の方法を実践させること,さらには多数の意見,通った意見をいった者たちに,ためらいの感情を持たせるという意味での道徳心を持たせる方が大切なような気がする。

それは,公民だけではなく,小学校や中学校でも実践と理論を学ぶこともできるはずだ。

 

民主主義の方法=話しあって多数決,という単純なものではないことがわかってよかったです。

 

 

 

 

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