体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

模擬授業が始まりました。

こんにちは。石田智巳です。

 

初等体育科教育法という授業では模擬授業が始まりました。

今日は,その話をします。

では,どうぞ。

 

模擬授業というのは,僕が和歌山にいた頃からやっていたが,そのときは中等課程の学生たちだけをやっていた。

初等課程は,100人以上だったので,指導案をちょろっと書くことはやったが,模擬授業はやっていない。

僕自身,大学4年の教育実習ではじめて授業をした。

つまり,模擬授業なるものを受けていない。

 

そんな僕が,模擬授業を指導するというのも変な話である。

模擬授業だって,授業だから,「一定の考え方」が指導案に盛り込まれ,それを実際に児童役の学生相手にやってみることになる。

何年もやっているとわかるのだが,学生に苦手な部分がある。

それは,おそらく当時の僕も同じだったと思う。

 

まず,この「一定の考え方」であるが,模擬授業は素晴らしい授業をするということではなくて,僕(石田)が要求するような授業を指導案に書いて,実際にやってみることである。

違う考え方の授業では,指導はできいない。

その要求とは,まずは「教えたい内容」を言葉にすることと,それをどんな「学習場面」で実際にやるのかを書いてみることである。

 

25分の模擬授業の時間だから,大きな展開というわけにはいかない。

アップのような動き,メインとなる運動とその前に位置付く練習などの流れを考えさせる。

このときに,学生は「教えたい内容」が絞り込めない。

3対3のゲーム形式という書き方になってしまう。

これはいつもいうことだが,内容ではなくて形式だ。

これが書けないから,本時の目標も書けない。

 

で,これを何回かやりとりして,流れが決まってくると,今度は説明や指示や発問と,子どもを動かす工夫も書かせる。

運動の説明は本当に難しい。

あれもこれも説明して,もうその時点で児童役はよくわかっていないのに,まだ漏れがあることはしばしばだ。

だから,指導案には説明や指示も書かせてみる。

 

そうすると,最初は全く意味不明な言葉が書かれてくる。

俳句じゃないけど,それを聞いたら意味が立ち上がってきますか?

映像としてイメージできますか?

と聞きたくなるものが多い。

 

さらに,指示では,回数,時間,終わったあとにどうするのかまでも書かせている。

児童の活動に,「実際にやってみる」と書かれていれば,「誰から,どういう順番で,何回やって,終わったあとどうするのか,一人がやっている間に他の人は何をするのか」等も全部の指示を書かせるようにする。

じゃないと,児童役は一回だけやって,「先生,やりました」という。

これは模擬授業の指導をしていて,必ず落ち込む陥穽である。

 

そして,実際に子どもを動かすときの工夫だ。

集合に工夫があるか,縄飛びなどで一斉にタイムを計って回数を跳ぶときに,どうやるとスムーズにスタートできるか,交代をスムーズにやるにはどうしたらいいか。

これらも書かせる。

 

優れた理念をいう人もいると思うけど,僕は模擬授業ではすぐに使えるものを求めている。

その辺はプラグマティックなのだ。

それで,いつもいうことだが,そういうやり方を知っていることと,知らないことは違う。

知っているけどやらないというのと,知らないからできないというのは違う。

 

授業の研究において,比較的有名な教材とか,方法などをいうと,「そういうのは好きではない」とか「そのやり方はちょっと」という答えが返ってきたりする。

でも,その人は当然試してみたことはないし,もっと問題だと思うのは,それに代わるよりよい方法があるのかといえば,そうでもないのだ。

だから,子どもを動かす方法や,優れた教材の典型性を知ることが,僕の模擬授業の目的になっている。

 

こんな重厚な指導案は誰も作らないと思うけど,一度,そういう経験をしておけば,教師になって実際に授業をするときには書かなくても,できるようになるという期待をもっているのである。

 

で,実際の授業。

これがなかなか難しい。

何が難しいのかといえば,僕は高橋健夫さんの研究成果に学んで,授業中には子どもたちに声かけをしてほしいと思っている。

声かけは,肯定的,矯正的なフィードバックが中心だが,子ども役と関わってほしいと思っている。

 

しかし,学生はそれよりも,子どもが活動している時間に指導案を見ている。

気持ちはわかるけど,授業はプログラムを流すことではないので,そこはできるだけ関わっていってほしいところだ。

 

今回は,なわとびとお話マットの授業だった。

なわとびは,割とシンプルで,前回り跳びでできるだけ速く跳ぶ(一定時間で跳ぶ回数を多くする)という目標で,最初と最後に計測。

その間に,学生たちが用意してきた工夫3点を,ペアで実際にやらせてみて,見させるというものだ。

 

これがなかなかうまくいかなかった。

というのも,学生は指示するテンポが悪くて,空白の時間を作ってしまう。

児童役もどうしていいのかわからないような空気が流れる。

 

お話マットの方は,先生役がテンポよくしゃべっていたが,何しろ見本が悪い。

動物歩きがうまくない。

動物歩きから前転がうまくない。

なんというか,吉本的だったのだ。

「え~,なんであなたが見本を見せるの?」

「隣のサポート役にやってもらえばいいのに」

というほどだった。

先生がやるごとに,児童役がずっこける。

 

しかし,授業そのものはダレずにうまくいった。

はっきり言ってよかった。

そこで,終わったあとの好評で次のような話をした。

これはテレビでやっていた話だ(前にも書いたかも)。

 

ある老人ホームだったか福祉施設だったかもしれない。

そこに,介護犬がやってきた。

ところが,この介護犬は,全然駄目犬だった。

そうしたら,その危なっかしい犬のことが気がかりで,そこにいる患者というのか老人というのかが,みんな元気になってしまったのだ。

人は誰かの役に立っているというとき(社会的承認)に,元気になるものだ。

 

先生がしっかり者だと,それで子どもは動けるようになるだろう。

でも,それはお膳立てがしっかりしているからだ。

先生が先生としては駄目でも,人柄がよいと,子どもが支えてやらなくちゃとなる場合もある。

そうなると,「先生としては駄目」という言い方がもはや形容矛盾なのだが。

 

意図的に使い分けられるといいのだが。

それにしても,なかなか模擬授業はうまくいきませんね。

 

「それは,石田先生の指導が問題なのではないですか?」

「なんともはや。申し訳もございません」

 

 

 

 

 

http://tomomiishida.hatenablog.com/