体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

エクリチュールを替えて原稿を書き上げた話

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,書くこともあんまりないので,原稿を書き上げた話を書きます。

自分でもすごいと思いました。

ただし,書いて1週間寝かしていました。

そのように読んでください。

では,どうぞ。

 

先々週ぐらいに,肩こりになって,そこから来る頭痛がひどくなったということをブログにも書いた。

そこで,肩こり用の低周波の機器と肩たたきの2つを買って,毎日,やっていた。

整骨院にもいった。

5月7日には山道を走って腰をやってしまった。

ここ1週間ぐらいは,痛みから解放されていたので,先週の水曜日に整骨院に行って依頼行っていなかった。

 

そうしたら何と,火曜日朝起きたら電気が走った。

電気が走るというのは,まさに後頭部の痛みを表現するとそうなる。

ビリッ,ビリビリッとくるのである。

また来た。

慌てて起きて,ロキソニンを飲んで,肩たたきをした。

 

ところが,様子がおかしい。

というのも,前に電気が走ったのは左肩と首の凝りから来る左後頭部。

今回は,右後頭部に電気が走ったのだ。

左ばっかり揉んだりしていたから,右肩が怒ったのか。

 

でも,なんでそんなに肩こりがひどいのか。

身体的特徴としては,なで肩というのがあげられる。

そして,ワープロ生活だろう。

当たり前だが,授業や会議以外は研究室で文章を書いている。

僕は,原稿,メール,資料づくりに加えて,毎日ブログを書いている。

かなりの時間,ワープロに向かうことになる。

 

今日(水曜日)も,整骨院に行ってきて,帰ってきたのが朝の9時で,そこから13時まで殆ど休むことなくワープロ打ちをしていた。

日曜日も月曜日もずっとワープロを打っていた。

ランニングしても,肩こりは治らないよと整骨院でいわれるので,ときどき体操をするが,それでも夢中になっているときはひたすら打ち続ける。

 

それでなんと,原稿が書けてしまったのだ。

その代償としての肩こりから来る頭痛なのだ。

書き上げたのは,原稿といっても,学術論文ではなくて,『たのしい体育・スポーツ』9月号に依頼された4頁の文章。

 

大体,書く材料をあげて,プロットをつくり,文章にしながら,手の滑り具合を見ていく。

ときどき,書き始めては途中で止まる。

止まると,次に進めるのが難しい。

うまくいえないけど,推進力というのは,自分のワープロを打つ手が動いているそのことだからだ。

 

だから,途中で止まったら,推進力を得るためには,練り直して,もう一度頭から書き直すぐらいの勢いで手を滑らせないといけない。

あるいは,その止まった地点から,別の論文を書くつもりで書き始めてみるなどの工夫が必要になる。

 

今回は,実は書くことはいろいろあったのだが,プロットを立ててもまとめる筋のようなものが見当たらなかった。

だからそれを探していて見つかった。

細かいことは書かないが,体育同志会で「わかる」を重視する流れには2つがある。

あっ,依頼は「体育と言語活動」に関わった内容である。

それで,その2つの「わかる」は性質が違うのだが,とりあえずそのことを書いてみた。

 

そうしたら,手が滑りはじめた。

こうして,その2つの「わかる」の違いとその違いをどう考えるのか?という問いが見つかり,そこからの流れも見えたように思えた。

そうして,次の部分を書いていって,しばらくして手が止まった。

実は,その2つの部分でけっこうな分量を取ってしまっており,頭でっかちになっている。

 

こうやって止まると,次にすすむのが難しい。

だから,いつも止まったらそこで考えるのをやめて,別のことをする。

この論文に3分ほど向き合ってダメだったら別のことをする。

考えていれば出てくるものではない。

時間はどんどん過ぎる。

 

書いてみては,書けない。

そういうことを繰り返す。

でもあまり焦らない。

だって,9月号だから。

 

ところが,日曜日の午後にファイルを開いてみていたとき,あることに気づいたのだ。

それは,「ですます調」で書くように依頼文にあったのだ。

最初は,プロットを組み合わせるから,だである調で書く。

それで,ひとまず,それまで書いてあった文章に名前をつけて保存をして,新たなファイルに書かれていた内容を全部「ですます調」に変えたのだ。

 

その作業をやっているうちに,手が滑り始めて,そこから3時間ぐらいで一気に書き上げてしまった。

もちろん,その後,見直したりするので,脱稿とまではいかない。

この日の午前中に送信した。

今回の場合の勝因はなんだろう。

 

もうこれはずばり,エクリチュールを替えたそのことにある。

エクリチュールというのはロラン・バルトが使った言葉。

『体育科教育』連載の6月号(今月号)でバルトの話を書いた。

それは,「零度」という言葉である。

そのバルトの本には『零度のエクリチュール』という本がある。

実に難解。

 

単純にいえば,言葉を使用するときには,日本語という国語に従って書いているわけで,この国語をラングという。

ラングをもとにして,文章を書くわけだけど,そこには自分ではあんまり気づかないくせのようなものがある。

モーツァルトの音楽を聴くと,モーツァルトだとわかるような。

それをスタイルという。

 

それに対して,エクリチュールというのは,次のように表現される。

「ジャーナリストのエベールは,いつも『くたばれ』とか『ちくしょう』といった言葉で『ペール・デュシェーヌ』紙の記事をはじめていた。それらの粗野な言葉は何も意味していなかったが,しかし示していた。何をか。フランス革命期の状況そのものをである」(バルト『零度のエクリチュール』(新版)(みすず書房,2008,7頁)。

わかった?

わからないよね。

 

エクリチュールの機能とは,何かを伝達したり述べたりすることだけではなく,言葉を越えたものを-『歴史』と,自分の選ぶ立場とを-知らせてもいるのである」(同頁)。

だから,政治家にとっては政治家的なエクリチュールが,教師にとっては教師的なエクリチュールがある。

それと同じように,しかし日本語の特徴として,「僕」で始まるエクリチュールと,「私」で始まるエクリチュールと,あるいは「ですます」と「だである」によるエクリチュールがあるのだ。

エクリチュールは選ぶことができるが,その枠組みはすでに先人たちが使ってきた枠組みのようにあって,それを勝手に替えることはできない。

 

そして,僕は,「私は(筆者は)・・・・,○○である」というやや高いところから,「私は(筆者は)・・・・,○○だと思います」という目線を同じくするエクリチュールに替えることで,文章が書き進み,書き上げることができた。

これ自体が,僕が語る物語なのだが,でも実はこれは何度も経験していることである。

もちろん,この物語を先に語ったのがバルトであるが,僕は内田樹さんの『辺境人の思考』を先に読んだ。

あとでバルトを知って,内田さんとバルトの関係がわかった。

 

とりあえず,奇跡的だ。

だって,9月号なんて出るまでに何ヶ月あると思っているの?

あんまり早くに仕上がると,別のことを考えていて,全部差し替えとなるかもしれない。

なんて,贅沢な悩みですなあ。

 

さて,別の原稿にかかろう。

 

追伸

編集長から連絡があり,前半部分はムズカシイので,意味がわかるように書き換えの指示が出ました。

手が止まる経験をまたしなくてはいけなくなりました。

 

 

 

 

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