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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

竹内常一『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき』を読む2

実践記録 読書の記録

こんにちは。石田智巳です。

 

今日も,竹内常一さんの『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき』(桜井書店,2003)を読みます。

中でも今日は,第5章「友だちのいるクラス」を読みます。

では,どうぞ。

 

考えてみると,僕は変なことをやっている。

竹内さんのこの本は,基本的に竹内さんがあるテーマのもと実践記録を読み,それを解説しているのだ。

だから,その解説を僕が読んで書くということは,実践記録の著者の本,解説者の本,そしてこのブログという三重構造になっている。

 

僕自身は,これを読んで書こうと思ったのは,単純に読んでいいと思ったからだ。

竹内さんのフィルターにかかったからいいのかもしれないし,竹内さんの読み方がいいともいえるし,元々の著者の実践そのものあるいは実践記録がいい,そのどれかであってだからややこしいのだ。

でもいいの。

僕は,こうやって読むことで,後期の教職実践演習のネタを探しているのだから。

 

教職実践演習は,4回生の後期セメスターに置かれており,教職の総まとめの授業だ。

そこでは,理念としてはそれまでの3年半の間に学んできた内容を総括して,卒業して教師になる前に自分の課題に向き合うことになる。

そうはいっても,個別の課題を何十人かがもっているわけで,それでは授業にならない。

そこで,実践記録を読むのだ。

 

実践記録に書かれている子ども像と,子ども論に書かれている子ども像が違うのは,前者が私を主語にした一人称の語りであり,後者は抽象度をあげた語りであり,わりと一般的な子どもである。

もちろん,後者も事例は参照されるだろうが,子どもを取り巻く子どもたちや教室の雰囲気なんかは抽象化されて,脱文脈化される。

しかも,書いた人が見たわけではないのだ。

 

実践記録は,一番近くにいる教師が,自分の言葉で子どもを,あるいは教室の出来事を,因果関係をつけて語るわけであり,子どものとらえ方,教師の働きかけの方法,それによってどう変わったのかなどが語られる。

その,具体的で,文脈的な語りの中での出来事をまるごと学ぶのだ。

そういうすぐれた記録をストックしておけば,こういうときにはあの事例に近いかも,ああいうときには別のあの事例に近いので,こう対処してみようという形でアクションすることができる。

それを実践記録にして,どうだったのかを綴っていけば,ますます教師の信念形成に役立っていくだろう。

 

さて,この文章であるが,ここでは,これを書いた田所先生の「友だちのいるクラス」の方法を紹介してみたい。

方法を学んだってすぐに使えるものと,もう少し味付けを考えないといけないものとがある。

でも,理念のレベルから,方法のレベルに落とすことができないと,使えるものにはならない。

 

最初に田所先生の子どもの文章が三人分載っている。

そこには,他人の名前が出てくる。

それを,竹内さんは,モノローグではなく,ダイヤローグからなっていると指摘する。

そして,そこには,「他者との関わりを断ち切ることば(むかつく,めんどくせーとか)はひとつもない」。

なぜなのだろうか。

 

それは,担任が「率先して身体的・言語的な対話・交流の世界(空間)を切り開き押し広げてきたから」である。

そのために,身体的なコミュニケーションを大切にする。

「体が開けば心も開く」ということだ。

具体的には,「触れる」ことを大切にする。

子どもを「抱きしめる」「肩を揉む」「目かくし」「おしくらまんじゅう」など。

子ども同士でも,「全員と握手」「コインわたし(不明)」「腕相撲」「人間知恵の輪」など男女で行う。

 

これらはさらに,「他者の身体が応答する主体として立ち現れてくるから,当然,行為者の身体もそれに即興的に応答できなければならない。そのために,行為者のからだも開かれていく。そうなるとき,身体的なコミュニケーションは遊び的・演劇的な交歓となる」(81頁)。

そこには「ふれあいの公共空間」ができる。

 

宮城の制野さんが,震災後の体育授業で,スポーツよりもこういう身体的な実存に訴えかけるような実践をしたのも,同じような意味があるのだろう。

固く閉ざされた身体を開くということだ。

 

この身体的なコミュニケーションとともに,班ノートと学級通信による言語的コミュニケーションの回路をもっているのだ。

班ノートは,単に日記を書くのではなく,欄があるのだ。

具体的には,「祈っています」「愛しています」「困っています。怒っています。」「びっくりしました」「いい気分です」「ヒーロー・ヒロイン ○○くん・さん」

「班ノートを読んで」からなる。

それで,班員はわたしを主語とした一人称の語りで思いを書くことができる。

 

これで,ヒーローに選ばれた子どもの親から喜びの言葉が届き,障害者から感謝の手紙が送られる。

こうやってつなげていこうとしている。

実は,これも制野さんの実践にもある。

どこかで書いたと思うが,子育て日記によって,子どもと親,別の子どもと親,さらには兄,姉,おばあちゃんなども登場するという。

これらが共感的につながっていく。

 

いじめの取り組みも参考になる。

あるとき,ある女の子を集団で無視するということがおこった。

そのときに,森田洋司のいじめの四層構造のような構造図を書いて,直接的に干与した人,誘われてのりで干与した人,乗り気でないけど干与した人,やらないけど見ていた人,知らんぷりした人,困ったと思うけど何もしない(できない)人,などを同心円状に位置づける。

 

そして,班会議で,(1)どういうものをいじめと思うか。(2)いじめられたりつらかったことを全員が話す。(3)それらを発表する。経験を語るか,班長が代わりに発表。(4)いじめをなくすために,決意できる班は発表。班会議

ここでも,みんながいじめられたことつらかったことを語ること,そしてそれを聞くことで共感的な関係ができる。

 

「このような取り組みの中で彼らが学んだことは,『いじめの文化』の中にある限りは,『孤立無援』のなかに立たされ,自分を他者から切りはなすほかないということである。また,『ケアと応答の文化』がないときは,誰からも呼びかけられることがなく,応答されることがない,それなしには自己も他者も,そして共同の世界も存在しないということである」(87頁)。

ヘーゲル先生のいう社会的承認だね。

 

これらを通じて子どもたちは,自己対話もできるようになっていく。

「自分の内面が見えるようになってきたから,友だちの内面に想像力をはたらかせることができるようになり,友達の立場を考えて判断ができるようになった」のである。

 

なるほど,「ケアと応答の文化」ね。

新自由主義のなか,自己責任で攻められる今だから,ケアと応答,社会的承認,共感が必要になる。

よくわかる。

体育の授業だったらなにができるだろうか。

 

そこへの想像力をはたらかせてみたい。

 

 

 

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