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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

「和歌山支部ニュース」5月号(№262)を読む

読書の記録 運動文化論

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,体育同志会の和歌山支部ニュース5月号を読みます。

田中さんの巻頭言がとてもよいと思ったので紹介します。

では,どうぞ。

 

田中さんに初めて会ったのは,2002年の秋のことだと思う。

ヤンキースのマーくんじゃないよ。

僕が和歌山にいったのがその頃なのだが,そのときに有田(ありだ)の学校で授業見学をして,そのあと協議会をした。

 

その時に見た授業は,中学校の先生の授業だったような気がするが,あんまりよく覚えていない。

誰の授業というのは覚えているのだが,授業の内容などは全く記憶がない。

ただ,鮮明に覚えていることがある。

その時の協議会では,攻撃的ではないにせよ,すごく議論が白熱していた。

授業者はわりと若い方であったが,一生懸命説明をしていた。

 

でも,僕には全然わからなかった。

和歌山に来たときに,和歌山弁に触れて,そんなに強烈なインパクトをもたなかったが,有田の人たちの言葉は違った。

協議会では,一言もしゃべらずにいたが,最後に司会の方に振られたので,質問をした。

その質問は,授業に関することではないのだが,授業者が何度も発した言葉であった。

しかし,全くわからなかったので,この言葉さえわかれば,いろいろつながるような気がしたのだ。

 

で,質問したのは,「『あがら』って何ですか?」

大爆笑となった。

あがらは,わがらというのか,要するに「我々」のことを指すのだ。

その先生は,話の節々に「あがら」「あがら」といっていた。

わかったけど,何もつながらなかった。

 

昔,大学の寮の隣にいた方が,鹿児島の方だった。

ある日,別の鹿児島の先輩と3人で飲んでいた。

1988年か1989年のことだが,酒は当然芋焼酎

あのころは,今のように普通に「芋のお湯わり」なんぞ飲まなかったが,隣の部屋ではいつも「芋のお湯わり」だった。

 

それで,その二人が飲んで話をしているのだが,まったくわからない。

鹿児島弁がわからなかったのだ。

「・・・どっ」とはよく聞こえたが,ほとんど聞こえない。

あの人たちはバイリンガルだね。

飲むと,向こうの言葉になる。

質問されたと思ったけど,わからないから「はい」とかいっていたら,どつかれた。

yes no で答える内容ではなかった。

 

そうそう,鹿児島の人は,自分のことを「おい」という。

相手のことを「わい」という。

岡山(笠岡)の人は,自分のことを「わい」という。

会話にならない。

 

馬鹿話が続いてしまった。

田中さんである。

田中さんの当時いた学校へはよく出かけていった。

すごい学校だった。

近くに有田川という川が流れている。

そこから山になっているのだが,山の斜面,平らな土地,一面ミカン畑。

そう,有田ミカンで有名な有田なのだ。

 

河口にいくと,簑島高校がある。

太刀魚の水揚げは日本一。

和歌山は梅も柿もミカンも,マグロも有名。

で,田中さんの小学校の上もミカン。

坂道をミカンが転がり落ちる町。

 

さて,『たのしい体育・スポーツ』5月号は,特集が「職場に広げる『わかる』『できる』体育」だ。

学校でいかに実践をして,それを学校のものにしていくのかという特集だ。

前も書いたけど,こういう実践課題は難しい。

若い人は支えてもらってやった実践となる。

中堅からベテランは,学校づくりと関わって広めた実践となる。

 

問題は,広めようとしても,その人がいなくなったら,やらなくなることが多い。

それがとてもいい教材で,目の前の子どもが変わったとしても。

やはり有田におられた小学校の先生が,学校の体育カリキュラムをつくり,戦略的に職員室に広げようとして,うまくいったと思ったが,転勤したらやはりやられていなかったという。

 

かつて,中村敏雄さんは,体育の学力というときに,「わかって,できる」だけでいいのか?という問い方をした。

でも,「わかって,できる」ということ,あるいは単純に「できる」を実現することは今は難しいのである。

問題は,昔と今ではやや違うとは思うが,日本には(あるいは,体育のある国では),体育授業というとある種の共通のイメージというか,無意識の構造のようなものがあって,どこに行っても同じような体育授業が行われているのではないか。

それは,他の教科でも同じかもしれない。

 

そのイメージは,失礼ながら誰でもできる体育授業である。

子どもが喜ぶからドッヂボール,一斉で動く跳び箱,ゲーム中心のバスケットボールのようなもの。

その範疇で子どもが喜ぶだとか,うまくなるだとかの追求がなされる。

 

だから,すぐれた教材やワークシートなどがあったとしても,カリキュラムをマネージメントする人がいなくなったら,無意識な構造の方に,それこそ無意識に回帰してしまうのではないか。

いつもの実践をいつものようにやって,成果が上がらなくても,これが体育だよなとか何とかいって,ホッとするというのか。

 

また話が全然違う方向に行ってしまった。

田中さんは,今,管理職である。

管理職だから,学校づくりに腐心しているようだ。

年度初めに,子どもも職員も「学校に通うのが楽しくて仕方がない!」と思えるような学校をつくりたいと思っているという。

 

「そのためには,まず職員一人一人が楽しいと思える職場でないと楽しい学校はつくれません。

楽しい職場かどうかは,職場の人間関係が一番の要因と言われている。」

 

そして,クラスの目標となっていることが職場の目標になっているかどうかを問う。

「一人一人の意見や考えを大切にしよう」

「みんなで助け合い協力しよう」

「それぞれのよさを出して」

「明るく・笑顔で」

「思いやり」

「話し合いや学び合い」

最後に,「楽しいクラス」

 

「クラスの子どもたちに当たり前のように指導していることが,教職員の間では,できていないのが現状ではないでしょうか?」

 

そうなんだよな。

まさに,道徳的な理想は掲げるけど,足もとはグラグラしているってことはよくある。

僕は管理職でも何でもないけど,いろいろ感じることがある。

自分だってきっちりできないけど,子どもには理想を言って,あとで嫌悪感をもったり。

職場でも,なんだか疑心暗鬼になるようなことがあったりする。

 

「わかる,できる」体育も大切だけど,やはり雰囲気作りというは大切だ。

だって,この人いいなと思える人は,実践の中味もだけどやっぱり人柄だったりするし。

でも,これがなかなかうまくいかないんだな。

みんな自分がよかれと思ってやっているから。

よかれと思っているけど,人がどう思っているかは別。

 

と,この田中さんの話を読んで,気づかされました。

僕にとっても実践課題です。

 

 

 

 

 

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