滋賀支部ニュース「学習活動の対象化」の疑問に答えたいと思います。
こんにちは。石田智巳です。
今日は,「はぐくみ」(体育同志会滋賀支部ニュース5月号)を読んでいたら,僕の書いた文章を読んだ滋賀の方が,「何度読んでも、わかるようでわからない。」と書かれていたので,これに答えてみたいと思います。
では,どうぞ。
滋賀支部ニュース「はぐくみ」は中味が濃い。
他の支部ニュースが「薄い」と言っているわけではないのだが。
理由は上手く言えないのだが,ただ,何回かこの中の文章を取り上げていることからもわかると思う。
さて,そのなかで今回は,「たのスポ4月号を読んで」という文章に僕が登場した。
「4月号の特集は『はじめてみようグループ学習』でした。神谷氏の『これからグループ学習を始める人へ』から、木村氏・石井氏・井口氏・國井氏・森氏の座談会など、いずれも興味深い内容でした。そのなかでも、『わかる、できる、いきる』体育実践と教科内容研究実践の石田智巳氏の論考を紹介します」となっている。
う~ん。この文脈で持ってこられたか!
という感じだ。
というのも,僕のこの文章は,グループ学習の特集とは関係がなく,「時代を拓く実践をたどる」という連載の20回目であり,そこにたまたまグループ学習の歴史について簡単に書いたものなのだ。
僕の書いた文章は,系統性研究の成果が出てくる1970年代の体育同志会の研究の系譜や広がりをお伝えすることだった。
しかも,よく見ると,「読者に(わかりやすく)お伝えすることです」と書かれている。
「わかりやすく」ということで書いたのに,何度読んでもわからなかったのはマズい。
何がわからなかったのか?
「体育同志会では、技術指導の研究と並んで、グループ学習の研究も行われてきました。これは自治的・自主的な学習集団を育てるという意味合いがありました。ただ、難しいのは、子どもの自主や自治を育てる指導と、教師による系統化された技術の指導とは、考えてみると矛盾の関係にあるわけです。」(『たのスポ』30ページ)。
ここから,「系統の一人歩き」や「グループ学習の手続き化問題」が出てくる。
前者は,明らかにされた系統を子どもに当てはめるということであり,後者は,明らかにされたグループ学習の手順を子どもに当てはめるということである。
それに対して,体育同志会の先達は,子どもたちを主人公にするグループ学習の実践とは何かを追求する。
そして、「グループ学習の新たなイメージとして、学習活動そのものを学習の対象に据えるという『学習活動の対象化』や『認識と習熟の変革過程を学習の対象に据える』などがいわれるようになります」。
この引用の後,「何度読んでも,わかるようでわからない」と続く。
さて,ここでは,山口大学の海野さんに登場願おう。
文献は,ずばり「学習活動の対象化」,中村敏雄編『戦後体育実践論』2巻(創文企画,1997)である。
「系統の一人歩き」や「グループ学習の手続き化問題」が起こったとしても,授業展開を見れば,「ある意味では子どもたちを『スンナリとうまくすること』に成功しているし,また『スムーズに授業が進行している』ように映る。あたかも何も問題がなく体育実践が展開しているようにみえる」。
しかし,この「すんなりと」「スムーズに」という「不自然さ」,生きた人間がぶつかり合う授業で「スムーズ」にいくことに,何か「育てるべき大事な何かが欠落しているのではないか」,「おかしいのではないか」と体育同志会の先生たちは,自問自答していく(143ページ)。
そして,この二つの問題には,ともに,「教師の一人歩き」ではないかという指摘が中村敏雄さんからなされる。
系統性研究は,現場の実践をベースにして,仮説を立てて検証し,試行錯誤を繰り返してつくられたものだ。
それを利用して,ただ上手くしようとするという場合,その教師は「啓蒙主義的指導観」をもっており,その場合,授業は「伝達-受容」的性格をもつことになる。
また,その指導観は,子どものつまずきや失敗を回避すべきものだと捉え,能率主義的に,「課題から正答までを直線的にたどらせる指導こそが『よい指導』」となる。
そう,私たちはともすれば,教師のいうことを聞くよい子に向かって,問題なく進むことをついつい願う。
この啓蒙主義と能率主義を超えるために,どうすればよいのか。
その一つは,「教師が子どもに教える」という単純な図式を脱却して,子どもたちによる自主的な学びを作り出すことにある。
このころ,体育同志会では,2つの子ども観が確立する。
ひとつは,「運動文化の継承・発展の主体者としての子ども」であり,もうひとつは,「学習の主人公としての子ども」である。
前者について。
かつて,体育同志会では,「運動文化の人間疎外的条件が具体的に運動文化財とその体制のどこに,どのように内包されているのか」「それをどう克服するのか」が教師に求められた。
しかし,運動文化の主体者としての子ども観が出てくると,子どもたちに「事実を正しく見る眼」「科学的に研究していく方法」「民主的な集団を作り上げていく力」などを育てることが教師の役割となってくる。
子どもたちに,矛盾や疎外的条件から遠ざけるのではなく,子どもたちに向き合わせるのである。
後者について。
教師が中心となって学習が進行するといった場合,子どもが学習でつまずくことは,回避されるべきであり,教師に授業の工夫が求められた。
しかし,子どもが主人公であるということは,子どものつまずき,上手くなっていくこと,あるいは上手くならないことは,子どもたちで解決されるべきものという考え方にたつ。
とはいえ,子どもたちだけで乗り越えるのは難しいので,出来具合やわかり具合を把握することができる教具(心電図,触球数,田植えライン,手形・足形など)が開発され,それらと子どもの感想文や各種データなどが,子どもたちによる分析のために持ち込まれていく。
これらの子ども観の先に,「学習活動の対象化」が実践的なイメージを持ち始める。
つまり,学習活動,-教材とグループで取り組んでうまくなっていく筋道を探ったり,うまくならない理由を探ったりする活動-そのものを学習の対象に据えるということだ。
海野さんは,1950年代には「生活と教育の結合」という軸があり,さらに,60年代以降になると,「教育と科学の結合」という軸があったと指摘する。
生活と科学と教育をどう結合して,統一して,授業実践に落とし込むのか,これは今の課題でもある。
といろいろ書いたけど,ますますわからなくなったとなるとまずいですね。
この文献を一読されることをお勧めします。