体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

研究会に参加することについて

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は教育科学研究会(教科研)の『戦後日本教育と教育学』(かもがわ出版)を紹介しようと思って書き始めましたが,まったくそこまで行きませんでした。

以前,読書のススメ はてなブックマーク - 読書のススメ という記事を書きましたが,それとは違う意味での「読書のススメ」のつもりでしたが,研究会のあり方のような内容になりました。

では,どうぞ。

 

前の「読書のススメ」に書いたことは,ザックリいうと以下の通り。

本が読み進まないのは,私が作っている(目に見えない)物語の枠組みに,著者が描く物語が引っかかってこないから。

また,本のヒットも良くて3割5分と思っておけばいい。

そして,本に書いてあることが正しいからそれを学ぶのではなく,本に私が出会うことで立ち上がる私にとっての意味があるのだから,これを大切にしたいこと。

最後に,僕にとっていい本とは,読むことによって,関係ないことも含めて,色々頭が回転しはじめるものだということ。

 

この「本に書いてあることが正しいから・・・」という観点からすれば,研究会で学ぶということも同じことが言える。

僕は立場上というか,ブログを書くからか,体育同志会の各支部のニュースを読む。

そうして,例えば,冬大会は各支部では(厳密には,各支部の執筆者には),どう受け止められたのかという情報を得る。

 

このときに,「つまらないなあ」と思うのは,一生懸命事実を伝えることに腐心している記事だ。

事実を伝えるというのは,時系列で誰がどんな報告をして,それに対してどんな発言があったとかを報告したものだ。

それは大切なことだ。

でもね,速報として支部ニュースに載せる価値はあるけど,それは研究局でもやるものだ。

 

僕が知りたいのは,あなたはそのうちのどこが良かったのですか?誰のどんな発言がどのように良かったのですか?ということである。

ついでにいえば,今回の大会そのものが良かったのか,悪かったのか,どこをどうすればいいのかも書いてほしい。

 

なぜそれを書かないのか。

理由は様々だろうが,おそらく,次の二つではないか。

①上で僕が求めたようなことが,研究会ではよくわからなかったから書けない。

②批評めいたことを書くと,「それは違う」だとか「見方が甘い」とか,「浅い」とかいわれると思ってしまうから書けない。

 

①は,まさに,冒頭で述べたように,私が作っている物語の枠組みに,その研究会で語られた他人の話(物語)が引っかかってこないから。

これは,「参加理論」からすれば,仕方がないのかもしれない。

 

ベナーという人の看護論では,看護婦の成長はザックリと以下の通り。

最初は,毎日患者さんのところへ行って,血圧だとか体温だとかを決められたように計測する。

すると,あるときから顔を見ただけで,よいわるい,どこが悪いとかがわかるようになってくる。

そうやって(ちょっと跳びすぎるが),婦長クラスになると,事故を起こした救急患者が運ばれてきたとしても,その手術を行う執刀医が到着するときには,手術に必要な道具はすべてそろえてあり,患者の状態を医者に話せるまでになるという。

 

研究会の場合も,最初は周辺参加で,話を聞くということが精一杯なのだ。

それが経験をするにつれ,色々なことに予測がつくようになるし,対応もできるようになる。

参加理論で大切なのは,研究会の中味の理解を作っていくことと同時に,研究会の言葉づかいや所作なども同時に学ばれるということだ。

 

これはよく譬えられるのは,日本の伝統芸能(お花,お茶,踊りなど)の通い稽古の人と住み込みの弟子の場合。

師匠は,通いの人には稽古をつけるが,住み込みの弟子には稽古をつけない。

それでも,住み込んでいるうちに,まさに常住坐臥,師匠の所作や言葉づかいや稽古の仕方を浴びるようにして,身につけていくというわけだ。

これは本では学べないこと。

 

使う言葉もそうだ。

教科研では,かつて「ねうち」という言い方がよくされた。

教科研も同志会も含めて民間研では,「切り結ぶ」という言葉が使われる。

あれはもともと,丁々発止のような意味があったが,いつの間にか「あわさる」といういい意味で用いられるようになる。

これは,昨年,東京の井上良江さんが,ふともらしたことだ。

 

さらに,所作について。

僕の師匠と後輩の院生と僕の3人で研究の話をしていたときのこと。

あるときに気づいたのだが,みんな上を見ている。

つい吹き出しそうになったが,それは師匠の考えるときのポーズが,あごを上げて目は見開いて,さらに上を見るというポーズだった。

それが,ちゃんと伝播していたのだ。

そして,あるとき同じ広大出身の丸山さんもまた,同じ考えるポーズをしていたのだ。

時空を越える。

 

認知理論だと,なんとなく,内容の伝達が問題となりがちだが,参加理論では,むしろ身体的な所作や言葉づかい,あるいは文脈と併せて伝達されることになる。

研究会にも,繰り返し通って身を寄せていると,雰囲気にも慣れるし,誰は何を言う人だとか,だいたいこういうことを言っているのだと見えてくるものがある。

それにともなって,意見も言えるようになるし,提案や新たな観点を出せるようになってくる。

自分の物語の枠組みが変化するということなのだが,その変化は忘れないように記述しておきたい。

そうして,自分が報告者になったり,企画を作り,運営側に回るような中心参加になっていく。

 

②については,これはある種の権力関係であるが,背後には支配的な本質主義という認識的立場がある。

これについても前に述べたが,正解は語る側にあって,聞く側はそこから学ぶという立場である。

だから,さっきの例でいえば,ベテランの方がよく知っているし,議論で発言をしている人はまさにそのことに対する本質的な議論(発言)をしているということになる。

そうすると,初心者の私にはよく見えないから,理解が甘く,浅く,発言しにくいとなる。

だから,いきおいニュースへの報告も,できるだけ浅学非才の私の意見を書かずに,事実を報告しようとする。

 

これは仕方がないことかもしれないが,でもその中でどんな発言が良かったのか,どんなことを考えたのか,などを自分なりに書いてみる必要があるのだ。

それはまさに何が見えたのかを記すことでもある。

それが自分の物語の枠組みを知ることの一歩となる。

枠組みがまったく知られないのであれば,自分の枠組みを越えることは難しい。

 

問題は,①でも出てきたヘーゲル的な弁証法によって理解が深まることは,同時に,その研究会的な思考を身につけることであり,そうすると,みんなが同じになっていくということだ。

同じになっていけば行くほど,異論は挟みにくく,挟むときにはかなり勇気がいる。

弁証法ではうまくいかないから,個人にとってはときに脱構築(換骨奪胎でもよい)が必要になるのだが,それを語ると逸脱となって,修正される。

 

もちろん,大切にしてきたことを知っているからこその脱構築(換骨奪胎でもよい)なのだが,それを若い人がいうと,とたんに権力的な関係が出始める。

そうなると,若い人は参加しにくくなる。

そういう意味では,研究会そのものが本質主義からの脱却を必要としているのかもしれない。

 

またまた,やってしまいました。

本の中身に全く触れずに終わりました。

 

 

 

 

 

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