竹内常一『子どもの自分くずし,その後』から
こんにちは。石田智巳です。
今日は(も),竹内常一さんの本を読んで考えたことを書きます。
今日は,96ページの「教師を拒否する子どもたち」という話です。
子どもとうまく関係をとりたいのに上手くいかない原因はどこにあるのか,という実践記録の批評です。
では,どうぞ。
竹内さんの『子どもの自分くずし,その後』(太郎次郎社,1998)というのは,子どもが自分をくずして,再びつくるという意味があるようだ。
オウムの言葉であるときに,はやった「イニシエーション」だ。
違う言葉で言えば,「死と再生」だ。
あれ,そういえば。
あった。
佐藤学さんの『学びその死と再生』という本がある。
これも同じ太郎次郎社から95年に出ている。
太郎次郎社というのは,子どもの固有名を大事にした出版社なのだろうね。
さて,竹内さんが取り上げている実践記録は,『ひと』という雑誌の1997年11月号にある。
この『ひと』は,その前年に,「“教育”を紡ぐ小さな物語」を特集した。
そこで問題にしたかったのは,「教師の思惑をこえたところで起こる子どもの出来事のなかに『学校』という『大きな物語』を超える『小さな教育の物語』があるのではないかということ」であった。
そして,竹内さんは,「その大半は物語の状況設定を子どもの直接的・間接的な『拒否』においているように思われた」という。
昨日の,舞踊に関する話2 実践記録の読み解きにおいても,「踊らない子ども」の話だった。
大きな物語と小さな物語というのは,リオタールの言い方だ。
科学や資本主義など,そしてそれへの阿諛追従が暗黙のうちに正当化されるのが大きな物語であり,その追従の物語から逃れた自由な物語が,小さな物語だ。
だから,子どもの学校への追従を当然とする大きな物語と,それを拒否し,そこから逃走するアジールが小さな物語になる。
そして,その拒否し,逃走するという経験を通して,子どもは子どもになるのであり(死と再生),子どもは大人になるのである。
その経験をさせないように管理したり,先回りして困難を取り除いていては,子どものイニシエーションの機会は得られない。
このさじ加減が難しいし,子どもの葛藤を読み取り,適切に導いてあげるのも難しい。
さて,教師を拒否する子どもたちは,「石田先生」の話だ。
繰り返すが,石田先生の実践記録に書かれた物語(教師目線の大きな物語)を,竹内さんが,子ども目線でその物語を読み替えていく,あるいは再物語化していったのがここに書かれている中身なのである。
なかなか複雑だ。
6年生を担任した石田さんは,11月になって子どもたちに次のように要求した。
「いま,一番考えていることを書いてみて。どんなことでもかまわないから,自分のことばでストレートに表現してくれないかな。もちろん,先生やうちの人,世の中の出来事に対する考えでもいいから」。
そうしたら,勉強のできるリーダー的な3人の女子から,教師批判が提出された。
綴方教師でも,子どもを知り,子どもに寄り添うために,このようなことをいって書いてもらうことはあると思う。
基本的に共感するため,あるいは導けることがあれば導いてあげるために,本音を書いてもらうのだ。
3人の作文に衝撃を受けた石田さんは,クラスの了解を取って公表して,要求を聞くことにした。
「ダジャレがくだらない」(これは別の石田さんも同じだ)。
「プライバシーに関することを聞くのをやめてほしい」。
「同じ空気を吸っていたくない」(これはどうかと思うが・・・)。
結局,最後は,子どもたちは「『まじめを演技しながら』静かに卒業していった」。
要するに関係改善は図れないけど,あからさまな教師批判もなく,問題は表面化することなく,卒業していったのだ。
だから,学校の大きな物語からすればセーフだが,石田さん個人としてはアウトな1年だったことになる。
この石田さんの実践記録は,そこから自分を振り返る作業に向かう。
本音を引き出し,実践のバネにしたいと思っていたが,女子とのズレを大きくしていく。
男子とは最後まで楽しい思い出をつくることができた。
その他は省略。
この石田さんの立てた物語に対して,竹内さんは以下のように分析する。
まずは,問題点は,「本音を引き出す」という立場がかえって女子とのズレを生み出したことが問題として取り出されていないことだという。
本音を書かせるそのことの方法に,問題があったということだ。
①先の引用を見れば,家の人について「どんなことでもいいから本音を書け」というのはプライバシーへの介入を含むのではないか。
②他者に対する意見表明を促すわけだが,他者に対する批判を露出させる可能性を持っている。
つまり,うちの人の批判をしろ,そしてそれを報せろ,という指示にも取ることができる。
③「ムカツクことを書いてもいいの?」という問いかけに,「具体的に書いていい」と答えているが,他者に対する意見表明の場合,後で自分で見て恥じることのないことを語らせるべきで,それを欠いている場合,他者のみならず自己をも貶めることになることを教えていたのかどうか。
④「何でも書いてよい」ということは必要だが,「何をこそ書くべきか」「何にこそ喜び,何にこそ悲しみ,何にこそ憤るべきか」も同時に教える必要がある。
低学年は前者を,高学年は後者が必要になる。
このような指導がないから,子どもは学年が上がると書いたり,話したりできなくなる。
⑤「本音でつながる」というのは,家父長的な寛容的支配を含む。
⑥学級づくりは,本音でつながることではなくて,本音を引きだし,それにもとづいて古いたてまえを倒壊させ,新しいたてまえを作り出すことであるのに,それが間違って本音でつながると捉えられている。
自分の考えをしっかり持っている子が批判をしたのだが,「様々な本音からなる内的葛藤をかかえながら,それらを超えて一定のたてまえを生きようとしているのではないか」。
だから,それに介入しようとする教師にいらだちを感じるのではないか。
そして,最後に教師の子どもとの身体的な距離間を,教師自身がつかむこと,そして子どもたちに伝える必要性を説く。
なるほど,「何でも書け」ではなく,書くことを指導するのだ。
ところで,別のところで読んだことがあるのだが,竹内さんは,生活綴方が嫌いなのだ。
でも,書かせることの大切さは認識しているし,そのために書かせるための指導が必要だという。
前に坂本光男さん(金八先生のモデル)の本を紹介した(坂本光男さんの本を読む1 佐々木賢太郎さんが朱をいれた班ノート付き )が,そこでも,褒める叱るの4つの基準が紹介されていた。
それは,坂本さんにとっての「子どもの必要」だったのだ。
そこを明確にして,さらに,そういった指導があったのかなかったのかはわからない。
しかし,書かせることの難しさを考えさせられた。
それと,子どもたちは本音を抱えながら自分のたてまえを生きているというのは,要するに,子どもだって自分の物語を生きているということであろう。
それは,学校文化に回収されないという強い意志を持った物語かもしれない。
その物語をどう自分で組み替えるのかが,死と再生になるのだが,そこが難しいし,そんな理想は竹内さんは語らない。
でも,ナラティヴ・プラクシスはそこに焦点が当たっている。
という話も読んで,紹介したいと思います。