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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

一ノ蔵(体育同志会宮城支部ニュース) 4月号を読む

読書の記録 運動文化論

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,体育同志会の宮城支部機関誌「一ノ蔵」(№309)を読みます。

制野さんから「ゴールは誰のものか」という問いかけがなされています。

それに応えてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

宮城支部の支部ニュースは「一ノ蔵」という。

宮城では(全国でも)有名なお酒の名前である。

にもかかわらず,ワープロで打っても変換されない。

市之倉となるのだ。

ある方面への知名度はまだまだということか。

 

この「一ノ蔵」は,よその支部ニュースと違って,表紙はカラーなのだ。

写真も絵もともにカラー。

今回は,震災で被害を受けた南三陸の戸倉中学校の写真が6枚だ。

 

めくると,3月例会の報告がなされている。

体育同志会の支部とは,毎月のニュース,例会,そして会議を持つことで支部として認められる。

そして,研究団体なので,研究のためのプロジェクトもある。

宮城支部では,フットボールプロジェクトがある。

生活体育のプロジェクトもあったし,バレーボールのプロジェクトもあった。

 

めくると3月例会の様子が書かれている。

「新しい実践への息吹」となっている。

制野さんが報告しているが,制野さんをして「血が沸き踊りました」という内容だったそうだ。

 

若い二人の先生の,ともに2年生のボール運動だ。

一人は「じゃまじゃまサッカー」の実践である。

そして,もう一人は,シュートボールの実践である。

制野さんは,この2つの実践をそれぞれ報告して,「子どもの思考」と「『ゴール』の意味」について考えたことを書いている。

 

以前も書いたことだが,大会や集会や例会の報告を書くときに,見たことを忠実に書こうとする人がいるが,やはりそこで何を考えたのか,何がエキサイティングだったのか(でなかったのか)を書いてほしいものだ。

そういう意味では,制野さんの報告は,その実践記録とともに素晴らしいね。

 

じゃまじゃまサッカーの実践は,子どもたちの様子があまり書かれていないので,どちらかというと「わかって,できる」ことをねらいにした実践ということだろうか。

2年生ながら作戦を立てて攻めている。

そして,シュートボールの実践は,「ちょっとめんどくさい」子どもたちを相手にした実践で,「私の役目はあんまりなかった」という作文をもとに話し合いをしたという実践。

こちらの方が,宮城っぽいというか,生活体育っぽい実践だ。

 

で,実践報告を受けて聞いている側が,両方の実践に表れた子どもの作戦に「ざわつきはじめ」,「衝撃が走る」。

「圧巻なのは子どもたちがそれを図と言葉で解説しようとしているところです。作戦を俯瞰する能力,図面では表すことのできないタイミングや動き,そして思いを作戦図に書き込んでいるのです」。

子どもの思考過程がよくわかるものだったという。

 

そして,この子どもの作戦図というか思考の痕をめぐって,「幼児は”つもり”の世界をたっぷりと味わいながら,”らしさ”の世界を体現していく」(黒川哲也)という。

つまり,まだ体現できなくても,こんなことがしたいという「つもり」の世界を書き込み,それを味わいながら,それに沿って,段々と「らしさ」の世界が作られていくというのだ。

「私はむしろこの自由な海を心ゆくまで泳がせ,その深さも青さも体感させるべきだと思います」。

 

僕もそう思うし,やはり竹内常一さんじゃないけど,教師に見守られて,学校が求める答えを探すようになる前に,子どもの世界の中での発想を(もしかしたら教師には意味不明な世界かもしれないが)楽しんでほしいと思う。

もっといえば,「わかる」を先行させる前に,身体というか本能の世界を味わわせたいとも思う。

最近の実践では,やらせてみて,そこから問題を引き出して,解決を図るという実践が多くなってきているが,ボール運動の場合,1時間でも,2時間でも,教える前に,こまかいこといわずにやらせてみるのがいいと思ったりする。

 

さて,制野さんは,次に独り言のように,鋭い発言をするが,これはパスと受け止めたい。

「私の目下の課題は,『ゴールとは誰のものなのか?』」ということらしい。

相手ゴールに突き刺すのだとすれば,「ゴールは相手のもの」。

しかし,ストリートフットボール(お祭)は,町の中心部から自分の陣地にあるゴールに運ぶため,それは「自分たちのもの」だ。

 

そして,制野さんは,ゴールがどちらのものかによって,「球技の『性格』を考える上ですごく大事な解釈の分かれ目だと思います」と述べる。

自分たちのものだとすれば,「宝物のような存在」で,相手のものだとすれば,「爆弾」だともいえるからだ。

制野さん自身は,「実証」を考えているので,うかつなことはいわないでいる。

 

僕の見解(勝手な思いつき,だったらいいな的な見解)を開陳したい。

といっても,これは内田樹さんがどこかで書いていたことだ。

僕の文章には,内田率が高い。

村上率はさりげなく忍ばせるので,高いのだがわかりにくい。

 

どういうことかというと,マリノフスキーという人類学者が,クラ(蔵ではない)という交易の習慣を,パプアニューギニアのトロブリアンド諸島に見出して,それがその他の地域などにも同様の習慣があることを,レヴィ=ストロースが発見しただったかという話。

クラは,交易だけど,贈り物を直接返礼せずに,受け取ったら別のところへまわすだったかで,これが結婚のために,女性を交換し続けるというレヴィ=ストロースの見出した人間社会が成り立つための構造でもある。

 

ところが,ポトラッチなる儀式もあって,それは相手に返すというもの。

立派な贈り物を渡して,もっと立派な贈り物を返すことを繰り返すという。

細かいことは僕もよくわからないが,でも,僕が25年ほど前にいたミクロネシア連邦のヤップ島には,巨大な石のお金があって,それをカヌーかカタマランに乗せて,人が漕いで贈ったという。

これは,財力もだが,困難を乗り越える勇気のいることでもあった。

 

さてさて,サッカーで考えると,やはりゴールは相手ゴールになる。

相手ゴールへ困難を伴ってボールを贈るのだ。

困難は相手にディフェンスをしてもらうことで,そういう状況になる。

固いディフェンスを破るという困難を伴ってゴールを贈れば,それでみんなから賞賛される。

 

すると,今度は相手が同じように,こちらのゴールにボールを贈ろうとする。

このボールの贈り合いこそ-それは女性の贈り合いをすることで人間社会が成立するように-球技の,人間が創り出した文化の本質なのだ。

しかし,ゲームである以上,どこかで終わらないといけないから,「たまたま」時間で区切っているだけなのだ。

 

さて,これをいわゆるサッカーの競技場で,自分の陣地のゴールに入れると考えよう。

笛が鳴ったら,相手よりも先に自分のゴールにボールを運ぶのは簡単。

しかし,やっている方も面白くない。

見ている方も何も面白くない。

 

では,ストリートフットボールをどう考えるのか。

もともとは,ストリートフットボールは,球技の本質とは違うのだ。

なぜならば,自分の陣地へ運ぶこと,そして,運んだら「終わり」だからだ。

交換,交易ではない。

交易は,別の形で行われるのだろう。

多分。

だから,スポーツとして発展せずに,地方の文化にとどまってしまった。

 

新自由主義も,また富の再分配を拒み,交易をさせないという意味で,人間文化の本質から外れているのだ。

 

なんて,都合のいい理屈を並べたけど,これはこれで面白いでしょ。

そして,制野さんのパスに,僕もパスを贈り返しました。

問題は,制野さんが僕のパスに気づくかどうかですが。

 

「ビールが飲みたければ,相手に注ごう」。

「パスがほしければ,どんどんパスしよう」。

 

 

 

 

 

 

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