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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育の授業研究と実践記録のこと

実践記録 研究のこと

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日は,実践記録の連載で悩んでいることを書きました。

書くとあんまり悩んでいないように思われますね。

昨日,出原さんの「『みんながうまくなること』を教える体育」の話を出しました。

その話から少し広げてみたいと思います。

小林篤さんの話になると思います。

では,どうぞ。

 

昨日のブログでは,実践記録ブームが起こる予感ということを書いた。

といっても,それは難しいのだろうなあと思ったりもする。

というのは,50年代の実践記録ブームが衰退すると,あとは生活綴方の人たち,全生研の人たち,教科研の人たちなど民間教育研究団体の人たちが書いてきた。

しかし,そこでもなかなか若い人が書かなくなってきたことが述べられているからだ。

 

出原さんの「『みんながうまくなること』を教える体育」(長いので,略して「みん体」とする)は,本自体は90年に出る。

もう25年も前のことだが,ここで語られる実践もいいし,出原さんの書きぶりもいい。

特に,この本の舞台裏というか,出原さんの問題意識もまたいいのだ。

 

それは,後ろの方に載っている「『体育科教育』連載通信」と「あとがき」に表れている。

ここでは,特に「あとがき」がいいので,紹介したい。

『体育の子』に学んだ出原さんは,佐々木賢太郎さんがしたように,「今の子どもの『生きる』に切り込む実践とはどんなものだろうか」と問う。

そして,「今の子どもの最も主要な歪みである能力観や競争観,友達観,これらに切り込み,変革していくのが体育の授業の役目ではないかと考え始めています」という。

 

これって,ほら,1990年に書かれているということは,教科内容研究について考えていたということがよくわかるでしょ。

だから,「わかる,できる」というような実践(それ自体でも素晴らしいのだが)ではもの足りずに,テーマ性のある実践,それをまとめた実践記録のことをいっていたのだ。

そして教科内容研究のきっかけになる提案は,91年の埼玉大会で,唐突になされたのだ。

 

事実,「みん体」の時代は,「わかる,できる」の追求が体育同志会の実践的な課題であった。

「わかる」がグループ学習の鍵なのだ。

これはある意味で今も同じ。

大阪の中川さんの実践記録も,基本は「わかる,できる」なのだ。

 

が,みんなが「わかって,できる」だけでは,教師の敷いたレールを子どもに歩かせるような実践になりがちになる。

よほど,実践課題を明確にしていなければね。

実際に「いい子ちゃん」たちの揃ったクラスでは,そういう実践がなされ,問題のない実践記録が書かれることになるのだろう。

そんな実践記録は面白みがない。

あるいは,少々問題はあるけど,記録にまとめるときにはそこが消されてしまう場合もある。

 

しかし,出原さんがいっているのは,そのうまくいかない部分に焦点を当てようということだ。

もちろん,うまくいった場合はそれでなおいいのだが。

そうなると,やはり体育授業でみんなが「わかって,できる」その先にある何かを目指して実践を行うことになる。

 

それは,体育同志会の遺産としての教材やグループ学習を用いながらも,子どもたちとのリアルな関係の中で,独自の文脈の中で,教師自身の試そうとしたことが書かれなくてはいけないのだ。

出原さんは,伊藤高弘さんい教えてもらったという詩を「あとがき」に紹介している。

その詩は,「ものを書くこと」には,「抵抗」「苦しさ」「つらさ」がある。

しかし,「ものを書くこと」が「人間変革の原点を探り確かめる」のであり,そのことに「熱い思いを込めよう」と書かれている。

 

言葉によって子どもたちとやりとりし,言葉によって教材を教え,言葉によって記録をまとめるという意味では,授業とは,「徹頭徹尾,言語的実践」(佐藤学)なのだ。

ナラティヴ・プラクシス的な発想をすれば,教師が実践をして,失敗しても,そこから次に自分が授業をしていく道が切り開け,前向きな言葉で終われるようにしたい。

 

そのことが教師が教師として生きていくために,一番必要なことだと思うのだ。

だから,実践検討については十分に考える必要がある。

サンドバッグのように,パンチを繰り広げることだけではなくて,報告してくれた彼(彼女)が,前向きに明日の実践に向かえるように,彼(彼女)自身の言葉を立ち上げられるようにそこにいる人たちですること,そのことが集団検討には必要なのである。

 

体育同志会も,そこは自覚的にならないといけない。

ということを,冬大会の終わった後に書いたけど,この文章は常任委員会でしか開示していない。

『体育科教育』の連載に使うことにするのだ。

連載には,実践検討をしていろいろな意味が立ち上がったことを書くんだけどね。

 

さて,出原さんは今(当時),良い実践記録が減ってきた理由を4つ挙げる。

①実践記録が「データ分析」論文になっている。

②「できる」「できない」に目が奪われ,子どもの内面に入っていかない。

③子どもをまるごとつかんで授業に取り組んでいない。

④指導要領の拘束性が強くなって,自由な実践ができない。

 

まさにそうなのだし,これは今もそうだろうね。

佐藤学さんが,授業研究の客観主義にパンチを喰らわすのが,92年。

時代は,まさに客観主義ブーム。

 

体育でこの客観主義ブームのレールを用意した一人に,小林篤さんがいる。

小林さんは,僕が以前,『体育科教育』で言語活動の文章を書いたときに,お手紙をいただいて,恐縮してしまったことがある。

この小林さんは,多様な授業分析の方法を紹介して,その後の研究の先鞭をつけたのだった。

僕は小林さんがすごいと思ったのは,多様な方法を平等に扱っていたことだ。

そこには,実践記録もある。

実践記録が主観的だからダメだなんて一言も言っていない。

 

それで,出原さんも「みん体」の中で,小林篤さんの『すぐれた体育の実践記録に学ぶ』(明治図書,1988)を取り上げている。

問題意識としては,①1950年代から70年代の実践は扱われているが,80年代以降のものが少ないこと,そして,②小林さんのこの本ぐらいしか,「体育の実践記録とは何か」についてまとまった見解が示されていないこと,この2点であった。

 

で,僕も実践記録論を書いているわけなので,当然,小林さんはマークしているし,著作も持っている。

『すぐれた体育の実践記録に学ぶ』も持っている。

たまたま,これを手にとって読んでいて,びっくりすることに気づいた。

 

それは,本の裏表紙に書いてある言葉だった。

「いろいろな統計的手法を駆使して見出した授業の原理・原則が,実は,優れた実践記録の中でとっくの昔に述べられていた,という経験を何度もして,私は,研究の基本を『すぐれた先人の実践に学ぶ』という方向に切り換えた」。

 

これはすごいことだよね。

僕は,この本が出たときは大学生で,この本のことすら知らなかったし,実践記録のこともよく知らなかった。

小林さんのことは,大学院に行って知ったけど,その時はもう現役ではなかったように思う。

とはいえ,研究発表はされていた。

 

どうしてこの名言が,当時の体育科教育界にはやらなかったのだろう。

やはり客観主義のほうが,研究論文は生み出しやすいからだろうか。

 

でも,時代は実践記録なのです。

 

 

 

 

 

 

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