体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

坂本光男さんの本を読む2

こんにちは。石田智巳です。

 

今日もまた坂本光男さんの本『子どもが主役の学級づくり入門』(明治図書,1995)を読みます。

昨日は,ほめること・叱ること,子どもの要求を出させることなどについて書いていたのですが,僕が何でこの本を読んでブログの記事を書こうと思ったのかがよくわからずにいました。

でも,書いていて,書きたいことがわかってきました。

 

それは,「要求の組織」と「合意の形成」についてでした。

そのことについて書きます。

だから,坂本さんの本を読むというよりは,それに触発されたことです。

では,どうぞ。

 

クラスづくり,あるいは体育の授業でも,大切なのは,「要求を出させること」と「合意を作る」ことだ。

とはいえ,この2つは非常に難しい問題なのだ。

というのは,16世紀にホッブズは,イギリスでクロムウェルによるピューリタン革命を見て,「リヴァイアサン」を書いたとされる(ホッブスはフランスにいた)。

 

このときの問題は,社会の自然状態のことだった。

つまり,みんなが自分の要求を出すような社会では,要求は必ずぶつかるため,世の中は戦争状態になって,生存権という大切な人権が守れなくなる。

だから,国家とか社会という考え方が必要になる。

その国家にも様々なスタイルがある。

今のようになんとなく立憲政治や民主主義の危機に貧した状況というのは,自分の要求の実現されなさから実感されるのだと思うが,それもまた1つのスタイルで,変えるのは「われわれ」なのだ。

 

さて,子どものなかでも,要求を出させれば,要求同士がぶつかることがある。

というか,ぶつかるに決まっている。

そのときに,要求を引っ込めさせるのではなく・・・どうするの?

それが,合意を作ることだ。

当然だが,全員満場一致で拍手というわけにはいかない。

 

坂本さんの本には次の事例が載っている。

鬼ごっこをやるときに,ジャンケンで負けたのに鬼をやらない子がいた場合。

叱っておさえる指導もあるが,育てる指導にするためにどうするか。

まずは子どもたちの知恵を出させる。

いろいろな意見が出る中で,その子に向かって「どうする?自分で考えて,どうするか決めなさい」と待つ。

 

この指導のポイントは,その子に心の中で葛藤させることだという。

このとき,その子だけでなく周りにいる子も葛藤状態になる。

それで,その子が「やる」といえば,解決。

「今は代わってよ。この次から鬼をやる」といえば,また話し合う。

返事がなければ,「気持ちの整理がつくまで待ってあげよう」「それまで先生が鬼をやる」といってその子を支えてあげるのだ。

 

その後にもいいことが書かれているが,実はこの部分が大切だと思ったのだ。

なんで坂本さんのこの文章を読んでブログの記事を書こうと思ったのか,それがよくわからずあまり書き進まなかったが,実はこのことがいいたいことだったのだ。

 

『体育科教育』5月号で,「責任学習」の実践の話を聞いて,なるほどと思ったのは,たとえそれが坂本さんのいう「おさえる指導」であったとしても,信頼関係を築こうとする親心からきていることだ。

その方法や中味のことを言っているのではない。

責任学習でだって,子どもをほめることができるのだ。

 

ただ,不満というか物足りなさが,リアルな子どもたちとのやりとりが一次的な語りで書かれていないことだ。

もっと丁寧に書かれてほしいのだ。

教師が権力を握っているにしても,子どもたちが何か教師がしてほしくないことをしたときに,どうやって解決しようとしたのか,子どもたちに葛藤を起こさせたのか,言い含めたのか,そこが知りたいのだ。

 

同じ5月号の石井ちゃんの実践も同じで,Fが変わったと思われる7時間目のオリエンテーションでは,どんなやりとりがあったのかを書いてほしいと述べた。

全生研の実践家たちの実践記録は,そこが中心に書かれている。

『たのしい体育・スポーツ』2010年2月号(以下,いろいろなところで報告されている)矢部さんのバレーボールの実践にもそこが書かれている。

授業(単元)の山場で何があったのかは,ナラティヴ・モードで,つまり一次的な語りをしてほしいと思うのだ。

そうであれば,その実践から学べることはより多くあるだろう。

 

で,優れた実践は,子どもの要求が出されていて,それを吉均(吉本均さん)的には,「矛盾と葛藤」を経て,解決を図っていくという形になっているのだ。

もちろん,現象的には様々な形態を取る。

 

『たのスポ」4月号ではないが,グループ学習のはじめに,その教材に対する思いや願いや悲しみを書いてもらい,それをもとに方向性をみんなで決めるというやり方。

制野さんのように,岡田和雄さんの「どこでバトンパスをしてもいいリレー」に学んで,子どもたちとルールを作っていくリレーの実践。

矢部さんの器械運動の実践で,「発表会か競技会か」で揺さぶられた子どもたち。

そして,「何か自己中?」のバレーボールの実践。

 

もちろん,声にならない声を教師が拾って解決を図ることも多くなされているだろう。

しかし,子どもたちが要求のぶつかり合い(矛盾)に,自分たちで解決(妥協も含めた合意づくり)するという実践をいかにやるのかが課題となっているのだとすれば,一つ一つの実践においては,そこで行われたやりとりを書き込んでほしいと思う。

 

ジャンケンの事例は,たとえであろう。

だから,全く同じようにはいかないし,しばしばそういう嘆きをよく聞く。

「うちの場合,状況が違うからできない」とかね。

でも,だから,うまくいった,あるいはいかなかったという実践の事実を書いて,交流する必要があるのだろう。

まさに,英雄主義ではなく,子どもをどう捉えようとしたのか,何がみえたのかが書かれるということである。

 

あるいは,教科内容のどこが子どもたちに葛藤を起こさせることになるのかを研究することになる。

教科内容研究は,物識りを育てるためではなく,それによって子どもたちの問題を乗り越えるため,子どもたちが合意を作るきっかけとするために行われるのだ。

 

なんてことをこの本を読んで考えたので,ここに記しておきます。

 

 

 

 

 

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