『体育科教育』5月号 石井実践 「大都市の学校でみえる子どもの貧困と体育実践-個人走から協同のリレーへ」を読む
こんにちは。石田智巳です。
昨日は,『体育科教育』の5月号の「責任学習モデル」に関わる報告を読みました。
今日は,同じ号の1つ前にある石井実践を読もうと思います。
ラン友の石井ちゃんの実践です。
では,どうぞ。
「子どもの貧困と体育」というタイトルを見ても,あんまり驚かなくなった。
それは,2006年の流行語大賞に,格差社会だとか,下層社会だとかがノミネートされてからのことである。
「子どもの貧困」もまた2007年ぐらいからいわれるようになった。
「勝ち組」「負け組」というのは,まだいい方だ。
「○金」「○ビ」(○のなかに金とビ)というのが1980年代にはやったが,これはバブル経済へ向かうときにいわれたので,ちょっと意味が違う。
何となく,明るいのだ。
今のは明るくない。
この流れは,どこから来たといえばいいのか。
1980年代の半ばに,「民営化」路線がすすみ,税制改革が進む。
輸入品の関税が軽くなり,円高が進み,法人税が引き下げられ,企業の活動がしやすくなるとともに,個人の消費も増えた。
企業は貯めたお金で土地や絵画や外国の企業を買ったりした。
儲けたら社員に返すというのが資本主義企業だろ?と思うけど,それでも社員は社員でお金を持っていた。
その仕組みはわからなかったが,1987年に大学に入ったころは,夜の流川(広島市の繁華街)はすごかった。
僕はラーメン屋でバイトをしていたので,本当によく覚えている。
というか,その後の廃れ具合がウソのようというか,あのときの栄え具合がウソのようなというか。
だから,あの頃から,格差社会の到来は予期されてもよかったんだろうね。
路線は一緒だから。
ただ,経済的な国際競争に前のようには勝てないというのが違うだけで。
やはり2007年ぐらいだろうか。
和歌山支部の白浜集会で,ある先生の話がすごかった。
貧困の話だ。
コンビニでアイスを買ってあげるといっても,食パンを選ぶ子どものことだった。
本人は泣きそうな実践を笑顔で語っていた。
心では泣いていたと思う。
で,石井ちゃんの実践である。
タイトルが長いよ~。
石井ちゃんの学校は原宿にあった。
そんなところに貧困があるのか?
なんて思うが,石井ちゃんの書き方がいいね。
「社会経験の少なさに加え,食生活の乱れや孤食,暴力的な人間観の中におかれた状態を『生活文化の貧困』であるという堀場純也さんの指摘をひいて,Fという子どもの(その親も含めて)状況を説明する。
石井ちゃんの「貧困」はだから,お金がないとかいう意味とは違う。
これによって,お金の面の貧困とは違う貧困に共感できる人たちも出てくるだろう。
こういう話はどっかで聞いたことがあるんだけど・・・。
思った本を手繰ってみる。
あった。
「虐待には身体的虐待・性的虐待・心理的虐待・ネグレクトがあるとされていますが,社会的虐待と言うしかないケースが増えています」
そして,いろいろな貧困のケースが考えられるけど,「これらは,単に親の責任とは言えず,社会の責任であり,まだ明確な定義はありませんが,社会的虐待と呼ぶしかないと考えています」。
これは,田中孝彦さんの「生活を綴ることと,自己を形づくること」で,出典は『子供の生活世界と子ども理解』(かもがわ,2013,287-288頁)だ。
教科研のこのシリーズはなかなかよい。
この話は,体育同志会のあわじ大会(2013)において,田中さんが語ってくれた内容でもある。
この引用の部分は,ソーシャールワーカーの方が語ったという内容だ。
石井ちゃんの言っていることと全然違うが,何となく気に入ったから載せておく。
いつもながら,実践になかなか入れない。
話を単純化して言えば,文化的貧困の子どもであり,つながりがなかなか作れないFという子どもが,「学習や友達との関係をつくる大きなきっかけを,今回報告する体育授業でつかむことができた」という報告。
「障害走・リレー走を通して,競争に対する価値観を問題にし,リレーを通してつくられた人とのつながりがFに大きな影響を与えたのである」(45頁)。
競争のあり方については,まさにスポーツの本質であり,かつ体育の授業でどう考えるのかは問題になる。
『たのしい体育・スポーツ』4月号の北海道の沼倉実践も(矢部実践を下書きにしたと云え),同じ悩みを吐露していた。
それにしても,石井ちゃんのこの引用の言い方がいいよね。
本当はいろいろ苦労があって,他にもいろいろな手立てがあったんだけど,「リレーでつながった」といっているのだ。
決め手となったのはリレーという体育教材だ。
ここに逡巡がなければ,実際にそうなのだろう。
競争をさせると,子どもが順位に固執するのはよくわかる。
大学生でも,タイムを取ると,それだけで他者との競争で勝った負けたを云々する。
でも,体育授業でする競争は,スポーツの競争もだけど,それとは違う学びの成果をはかれるような競争である必要があるのだ。
それを石井ちゃんは子どもたちに気づかせようとする。
大阪の川渕さんのリレー実践も本気で勝負させることをねらっていたが,本気で勝負するその勝負の中味が問題になる。
リレーはまさに,バトンパスの技術に絞り込めばよいのだ。
しかし,子どもはなかなかそのことに気づけない。
そういう能力観を持ってしまっているので,変化させられないのだろう。
それが,46頁のFの感想に現れている。
そこで,このことに気づかせるオリエンテーションが7時間目に設定される。
体育同志会っぽいよね。
途中でオリエンテーションだものね。
そこで,「速さ=順位」だった競争観が,バトンパスの技術向上=タイムの向上,そしてタイムの向上そのこともまた競争できることに気づいていく。
後は読んでもらうといいと思う。
書きたいことはたくさんあるだろうが,この7時間目のオリエンテーションが転機だとすれば(だとすればだが),ここを教室の臨場感が伝わるような書き方になっているとなおいいと思うのだ。
リレー以外の教材の学習の時はどうだったのだろう。
話を単純化させられないことはわかるが,聞いてみたいものだ。
ということで,石井ちゃん。
よろしくね。