体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『体育科教育』5月号 「責任学習モデルを通して生徒たちと向き合う」を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

 今日は,『体育科教育』の5月号を読みます。

特集が「子どもの貧困と体育」となっています。

なかでも「責任学習」が目にとまりましたので,読んでみたいと思います。

では,どうぞ。

 

18日の日曜日は,昼下がりに大阪体育大学ハンドボール部の試合を見に行ってきた。

で,大体大は当たり前だが体育の先生が多い。

でも,知っている先生はあまり多くない。

名前を聞いたことがある先生はいるが,前の大学に勤めていたときに非常勤講師としてきていただいていた先生と,梅垣明美先生が同じ領域で知っているという程度だ。

 

さて,『体育科教育』は最近,「生徒指導」(1月号),「学級経営」(4月号),そして5月号が「子どもの貧困と体育」だ。

教科指導と生活指導を領域概念として区別すると,まさに体育指導と生活指導をどう行うのかという話になる。

でも,読むと,機能概念として,体育授業に生活指導を取り入れると読めるのだ。

 

で,この5月号にはラン友の石井ちゃんも執筆しているが,ひとまずなぜか「責任学習」が目にとまったので,これを読んでみたい。

「なぜか」と書いたのは,「子どもの貧困と体育」を特集しているのに,なんで「責任学習」なの?と思うからだ。

思うでしょ。

貧困は子どもの責任か?とか。

 

責任学習というのは,僕もこまかいことは知らないが,もともとアメリカで行われたやり方で,ヘリソンという人のそれが知られている。

これを積極的に紹介していたのが,大体大の梅垣さんであった。

アメリカの道徳の考え方と日本のそれとは若干違うとは思うが,これを日本でやるのか?なんて思ったこともある。

 

体育同志会ではこの理論に対しては,あまりいいと思っている人は多くないようだ。

一番の理由は,価値を決めるのが教師とか大人だからだ(と思う)。

アメリカの道徳教育では,「価値を教える」ことから,「価値は最後に自分で決める」へ,そして今ではやはり「価値を教える」という発想に変わってきている。

もっともこれは,アメリカでもすべての教師がそう考えているというわけではないと思うが。

 

「価値は最後に自分で決める」は,体育同志会に集う教師たちもそう考えたいと思っているだろう。

しかし,アメリカでは,「盗みはいけない。しかし,どうしてもほしい。だから,盗むことにする」ということは許されないから,「価値を教える」に変わってきたという。

極端な相対主義だ。

 

「盗みがいけない」のは当たり前。

人として生きていく上で,絶対にしてはいけないことや推奨されることは,学校でも家庭でも教えたらいい。

難しいのは,地域や風習など違う文化では,同じことでも違う意味が生まれることだ。

戦闘態勢にある人に向かって,人殺しはよくないよ,と告げても何の解決にもならない。

 

ただ,何でもかんでも「価値を教える」となると,自分たちで作り出していくというプロセスが抜け落ちて,「ダメだからダメなのだ」とか,「先生が怒るからやってはいけない」とかになりはしないか?となる,という言い分だろう。

それもよくわかる。

 

でも,僕がこれに懐疑的なのは,別の理由がある。

それは,今言った理由と関わるのだが,もともと責任学習がアメリカで考えられたということは,他にもそういうやり方があって,それを作ったり,あるいは日本に紹介するのには意図があるからだ。

その意図は何か?

 

3月の下旬に道徳が「特別の教科」になったから,4月に行政の文書も書き換わるという通達があった。

特別の教科ね。

教科の3要件は,教師,教科書,評価基準だ。

今回は,教科書は使うようだ。

 

実は前のときも今のときも,いつでも道徳は安倍さんの指示だ。

道徳を取り入れるときに問題になるのは,評価基準だ。

だから,これまで議論されてきて,見送りとなってきた。

しかし,全く案がないわけではない。

それが,「シンプトム(きざし)」による評価なのだ。

内容は,プラスのシンプトムとマイナスのシンプトムがあって,それを点数化するというわけ。

 

「要点を押さえた表現を心がけ,言葉を選んで使う」のはプラスのシンプトム。

「要点を押さえた表現ができない」がマイナスのシンプトム。

宿題をやってくるがプラス,やってこないがマイナス。

授業中に人の話をよく聞いたはプラス,聞かないはマイナス。

責任学習も似たところがある(と思うが,誤解かもしれない)。

 

これはまさに価値を教師が握っていることになる。

しかも,教師の指導の結果とは切りはなされる恐れもある。

自己責任的になるでしょ。

そうしたら,また「あいつが悪いことしてる」だとか役割の固定が起こり,発達障害の子はいじめの対象になるかもしれない。

 

つまり,意欲や態度はこれまで方向目標であったのに,それを到達目標にして測定しようとしているのだ。

僕は,道徳の教科化は,多くの識者がいうように反対。

だから,責任学習がどんどん進んで,道徳の評価法と認知されるのを恐れるのだ。

責任学習がいけないというよりも,それで道徳心を測定して評定に結びつけることに反対なのだ。

 

さて,長い前置きだったが,読んで不思議に思ったのは,「貧困と関係がない」ということ。

それはそれで問題ありかもしれないが,ホッとした。

貧困は自己責任では困るからね。

 

で読んでいくと,いろいろいい作用があったようだ。

評価とは「今のところ」関係がないようで,「授業改善」のためにやっているという。

事細かい批評はさけるが,全体的にいいことが書かれていると思う。

ただ,実践記録風に一次的な語りで書いてもらえるといいところも,二次的な語りとなっているので,ややこっちに入ってきにくい嫌いがある。

 

いいと思ったのは,たとえば,「教師と生徒との信頼関係を築くこと」が方針にあるという。

そのために,「生徒と1対1で対話をすること」(49頁)。

子どもたちはふり返って記述する。

その記述を先生が見て,生徒とのコミュニケーションを取りに行くという。

そこでは,自己評価の低い生徒に「自信を持っていいという」。

 

「責任学習モデルの自己評価は,生徒が出す『サイン』ではないか,と感じるようになった」。

「欄外には,授業内容の感想や,友達の取っていた行動で良かったと思える行動が書かれていたともあり」,コミュニケーションの手段になっていたという(51頁)。

 

「生徒の自尊感情を高め,決めた目標に向かって努力する生徒を増やすことができたと実感している」(52頁)。

「最も大切なことは,生徒たちと向き合うことであり,良いと思う方法を実行することにあると思う」(52頁)。

 

僕が抜き出した部分を読めばわかると思うけど,これは日記や作文,綴方の指導と同じなのね。

もちろん,現象面で見れば,責任学習は行動の指導であって,綴方教師たちとは全く発想が違う。

でも,現象から実体へ,じゃないけど,次数をひとつあげてみれば,そこには「子どものことを知ることが大切」という意味では,同じなのだ。

 

子どものことを捉えるのが,体育の教師の苦手な部分(?)だとすれば,これはひとつの突破口を示すことになるかもしれない。

できていない部分を「ダメだし」するのではなく,できている部分を「褒める」,そして,みんなのものにしていく,みんなで認め合うのは,学級づくりの基本だったりする。

 

繰り返すが,これが道徳や態度の到達度評価になるのであれば,僕は反対です。

でも,積極的に子どもとコミュニケーションを取って,子どものことを知るのが目的であれば,責任学習であってもなくても,やることには賛成です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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