反知性主義者とは
こんにちは。石田智巳です。
今,仕事がすごいことになっています。
何があるかふり返ってみると,目を逸らしたくなりそうなので,前を向いたままブログを書きます。
ブログを書く時間も惜しいのですが,少しでも書いておきたいと思います。
今日は,内田樹さん編著の『日本の反知性主義』(晶文社)という本のさわりをかじってみて,思ったことを書きたいと思います。
では,どうぞ。
この『日本の反知性主義』は,ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』から来ている。
実は,今手元にはないのだが,内田さんの『街場のアメリカ論』だったかを読んだときに,この『アメリカの反知性主義』を知り,ヒマがあったら読んでみようと思って注文した。
ところが,分厚い本が届いたので,本棚に置かれたままである。
実は,ピケティの『21世紀の資本』も同じような運命にある。
僕は,学生が「時間ができたら本を読みたいと思います」というと,間髪入れずに,「そういっている人は,時間ができたら他のことするよ=読まないよ」と言ってしまう。
イヤミだね。
でも,読みたい本があれば,時間を作ってでも読むものなのだ。
必要であれば読むし。
ということは,読みたい本がないか,必要がないのだと思う。
他にやりたいことがあるのだろうし。
実は,僕に取ってみれば,これらの分厚い本も読みたい本ではないか,必要がない本なのだと思う。
2010年の京都大会の基調提案を書くときに,デヴィッド=ハーヴェイの『新自由主義』を読んだ。
これは,ものすごくよくわかった。
僕の中では,どうして国家主義と新自由主義の2つが矛盾なく座っているのかがよくわからなかったが,これを読んで,「エリートの復権」という観点でみればなるほどと思えた。
あのときは,本当に忙しかった。
全エネルギーを体育同志会に注いでいた。
でも,本は読めた。
ただ,その後,ものすごいバーンアウトが起こった。
しかし僕は,2010年の大会のときも全国常任委員だったので,バーンアウトはしていられなかった。
で,バーンアウトは具体的には,京都支部に足を運べなくなるという形で起こった。
『たのスポ』が届いても読めなかったとか。
今は,違う理由で足が運べないのだが。
今は研究局長だから,これも結構大変なんです。
仕事はみんなに任せたいけど,いろいろ優先順位をつけながら仕事をしていても,優先順位をつけ間違ったり,手が回っていないときに,要するに差配ができていないときには,ツケが全部自分に回ってくる。
今困っているのは,中間研究集会のこと。
これは,僕の差配の問題ではなく,分科会基調提案が9分科会しか届いていないという問題。
いや,愚痴になるのでやめよう。
「反知性主義」であった。
反知性主義とは,ホーフスタッターによれば,「指折りの反知性主義者は通常,思想に深く関わっている人びと」なのだ。
これだけ読むとよくわからない。
実は,前に『街場のアメリカ論』で反知性主義のことが出てきたときに,すぐに思い浮かんだのは,次のことだ。
1つは,大正でも,戦後でもいいのだが,「新教育」がアメリカからもたらされたときに,デューイの思想をキルパトリックが反知性的なものにしたという意味での反知性主義である。
これは,さらに日本での需要過程で,知識への懐疑から極端なプラグマティズムを生んだということ。
というか,戦後すぐに力を持っていた人たちが,「知識を極端に軽視した」ということを反知性主義だと思った。
もう一つは,かつて教育学者の小川太郎さんが書いていた,資本主義社会における教育の矛盾のことである(「教育科学研究入門」,1965)。
「資本家階級は生産の発展のために,労働力の質の向上を図らねばならず,この必要は学校における陶冶の質の向上という形で実を結ぶことになる」。
「ところが,そのようにして生産の発展のために必要とされる陶冶の改善と向上」は,「労働者の知性の発達を促進し,こうして発達させられた知性は,生活の現実における矛盾を理性的に認識,この矛盾をおおいかくそうとする資本家側の企みを見破る力となっていくのである。」(p.104)。
そのため,「労働者のためにはできるだけ低い陶冶とそしてできるだけ強力な訓育を,というしかたで解決しようとされたのであった」。
でも,後者は反知性主義というよりも,支配階級が被支配階級を反知性的だけど道徳的にしようという意図だととることもできる。
前者に関しては,アメリカもスプートニク・ショックから科学を重視(現代化運動)したわけだ。
で,内田さんは「知性的な人」を,「単に新たな知識や情報を加算しているのではなく,自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えている」,「知性とはそういう自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている」という(20頁)。
さすが,内田さん。
間然とするところなし。
僕も,実践記録のことを書いているが,まさに思考の枠組みが変わるということを書いている。
昔っぽく言えば,量的拡大ではなく,質的転換なのだ。
で,さっきのホーフスタッターの反知性主義の定義を受けてであるが,内田さんは次のように言う。
「その人がいることによって,その人の発言やふるまいによって,彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが,彼がいない場合よりも高まった場合に,事後的にその人は『知性的』な人物だったと判定される」。
知性は,「個人のものではなく,集団との関係でわかること」,「(構造主義的に)後から知られるものであるということ」などに,内田さんらしさが現れている。
では,反知性的な人とは?
要するに上の命題の対極にある人のことだ。
「個人的には知的能力はずいぶん高いようだが,その人がいるせいで周囲から笑いが消え,疑心暗鬼を生じ,勤労意欲が低下し,誰も創意工夫の提案をしなくなるというようなことは現実にはしばしば起こる」。
「その人が活発にご本人の『知力』を発動しているせいで,彼の所属する集団の知的パフォーマンスが下がってしまうという場合,私はそういう人を『反知性的』と見なす」(ともに,23頁)。
この23頁までに書かれた文章を読んで,この本を買ってよかったと思った。
こういう本は,自分の研究に直接役立つわけではないかもしれないが,頭が回転しはじめるという意味では有用な本だ。
分厚くないし。
もう一つ,陰謀史観についても,興味深く読んだ。
といっても,すぐ次の頁から展開されるのであるが。
陰謀史観というのは,フランス革命でも,リーマンショックでも,何らかの事件に対して,単一の犯人(集団)を仕立てようとする考え方のことだ。
物事を単純化して考えるということでもある。
この二つを足すと次のような戒めが浮かび上がる。
というか,次のようなことはやってはいけないということだ。
組織が動かないという場合,組織がうまくいかないのは,私以外の犯人がいるからだ。
その人を厳しく糾弾することで,彼の知的パフォーマンスはあがり,ひいては組織が動き始めるようになる。
私の知性を疑う必要はない。
厳しい叱責をすればパフォーマンスがあがるというのは,言葉を換えれば体罰指導だ。
組織を動かすということでは,これを他山の石としたいと思いますが,そんなにうまくはいかないですね。
うまくやっている人はそんなことに悩まないだろうし。