体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

第5回中村敏雄シンポジウムの報告

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,愛知県の足助にある「体育とスポーツの図書館」で,3月29日に行われた中村敏雄シンポジウムの報告です。

では,どうぞ。

 

この日は朝早くに目が覚めたので,起き出してブログの記事を書いていた(理論と実践の関係について(新説)          )。

ストックしてある記事を出そうと思っていたが,それではいけないと僕のなかにある潜在意識の何かが,僕をして早起きをさせたのだろう。

それで,理論と実践の話を書くことになった。

その後,この日は日曜日だったし,夕方走ることは難しいだろうから,朝のうちに9キロほど走ってしまった。

 

それから,支度をする。

しかし,12時に藤が丘にいっても,そもそも僕が行くことが愛知の方々に伝わっていないといけないので,丸山さんと堤さんに電話をする。

堤さんとつながって,車に乗れるとのこと。

しかし,場所は藤が丘ではなく,本郷だった。

セーフ。

そういえば,金曜日に泊まった湯島は本郷の近くだよな。

なんて,思ったりする。

 

それで,早めに行って本でも読んでいようと思って,11時過ぎに本郷に着いたら堤さんはすでにいた。

コーヒーを飲みながら,途中で塩貝さんも来られて,3人で話をする。

12時には来るべき人が揃ったので,車二台で足助へ出発。

御飯は,参州楼というオシャレなお店でバイキング。

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ここは,かつては,ビーフシチューの旨い店だったが,経営者が変わったとのこと。

 

2時から始まるのだが,シンポジスト二人が10分前になっても来られていない。

ぴったりの到着となって,呼吸を整えてからのスタートとなった。

今回は,中村敏雄さんが勤めていた,東京教育大学附属高校(現筑波大学附属高校)の同僚であった二人の方を招いて,当時の様子を併せて聞きながら議論をすることがねらわれていた。

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はじめは,二谷貞夫さんという社会科の先生だった方。

この方は,同僚としてというよりも,中村さんが赴任したときの最初ぐらいの生徒で,しかもバレーをやっていたということで,その記憶が印象に残っていたようだ。

なにしろ,中村さんの授業のことは全く覚えていないというぐらいだから。

まあ,1954(昭和29年)といえば,60年も前のことで,こちらが知りたいことを,そうそう都合良く覚えていることはないだろうね。

 

二谷さんの話は,だから,まとまりという点からすると,パーツ,パーツが失われた物語のようになっていた。

しかし,やはり内部にいたからこそのおもしろい話が聞けた。

それは,等々力(とどりき)さんが当事者としてフォローしてくれたことで,よりリアルな話となった。

 

二谷さんが在学当時の体育科の教員と,その後,1970年から附属で勤務することの体育科の教員のリストとが書き出してあったのだ。

話は等々力さんの方へも飛ぶのだが,1975年に等々力さんが赴任するのは,斎藤政治さんが転出された後任としてだった。

 

斎藤さんは,京都・立命館大学に転出した。

そして,早逝されるのであった。

数年前に,僕が中等の保健体育の非常勤を探していて,附属(もちろん立命の)の先生にお願いしていたところ,退職された先生が来てくれることになった。

それで,その時に塩貝さんにもお願いしていたので,ちょうど今頃の時期に,一度僕の研究室で,うち合わせをしたのだった。

そうしたら,塩貝さんが来られて,「あらま」となったのだが,実はそれが政治さんの奥様の美恵子さんだったのだ。

僕は,政治先生のことは断片的に知っていた。

でも,まさか奥様だとは。

これも,運命なんだな。

 

話を戻すが,中村さんと鈴木善雄さんは体育同志会の人。

それ以外の二人は同志会ではない「普通の」体育の教師だった。

「普通の」とは,生徒を「並ばせて」「厳しく」する体育教師のことだ。

それで,体育科は2対2となった。

こうなると,新たな人事をやるときに,自分たちの知っている人を連れてきても決まらないことが予想されたので,その前の年に教育実習をした人に来てもらうという妥協案が出された。

 

結果的には,等々力さんだったわけだが,等々力さんは,だから最初は同志会の人ではない。

そのときは,筑波移転の問題があって,体育に限らずとにかく賛成派と反対派,何かモノを決めるときには,こちら派とあちら派に分かれてしまっていたというのだ。

当時の附属には,中村,横地,山本などなど民間研のリーダーがいて,そういう民主的な勢力と,それとは違う考え方をする(早い話が体制的な)勢力とに分かれていたという。

 

等々力さんの一票で決まるようなこともあったという。

そのときに,等々力さんは,中村さんたちについていくことに決めていたので,みんなにわかるように,候補者の名前を書いて自分はこっちの人間だということをアピールしたという。

そうして,体育同志会にも参加するようになったそうだ。

 

ここで思うのは,同僚性の構築は理想ではあるが,その大義名分を軽々に持ち出してはいけないということだ。

それぞれの学校では,みんな課題を抱えており,指摘されても黙るしかなくなるから。

 

等々力さんの話はまとまっていて,もう少し書きたいこともあるのだが,自分の中には二つの論点がある。

 

一つは,これは歴史実証をどうするという問題もあるのだが,若い院生の玉腰くんが,当時のバレーボールのことを訊かれていたことと絡む。

それは,僕が調べたところ,中村さんは1959年の夏の大会というかワークショップから同志会に参加している。

ただ,54年のころの生徒の話からすれば,中村さんの実践は,いつ,何を転機にして変化するのかという点だ。

これは,二谷さんも興味を持っているようだった。

 

「系統性の一人歩き」とかがいわれ,「奪い取らせる指導」とか,「学校体育は何を教える教科であるか」,その前の「近代スポーツ批判」の頃のような気がするのだが,それは70年前後。

しかし,実証するには,論考を分析するのではなく,実践記録を分析しないとわからない。

 

もう一つは,これは中村さんや等々力さんというよりも,体育同志会は運動文化・スポーツをどう捉えるのかという問題。

後者については,時々書いたりしてきたことだ。

「スポーツをやりたい」という人を励ます体育・スポーツ論なのか。

「スポーツは良くない,作り替えられるべき存在」という体育・スポーツ論なのか。

去年の草深さんの考え方に触れて,考えさせられた。

この二つの体育論は両立するのか否か。

 

やっぱり,研究会とか会合に出ると,頭が回転するのがいいですね。

機会があればまた参加したいと思いました。

図書館関係者の皆さん,ありがとうございました。 

堤さんと後藤さんには,往きと帰りに車で送ってくださったことに感謝です。

 

 

 

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