『体育科教育』が生活指導に
こんにちは。石田智巳です。
昨日は『体育科教育』4月号の連載の舞台裏を書きました。
今日は,昨日書きながら思ったことを書きます。
それは,生活指導のことです。
特集は,「体育から取り組む学級経営」なのですが,生活指導に引っかかってきました。
では,どうぞ。
土曜日に神谷拓くんと会って話をしたが,彼は,この雑誌で4年間連載した。
おそらく48回連続で登場したのは,彼だけであろう。
しかも,途中で部活動の往復書簡もあったし,体罰問題もあってそのときは二重に登場した。
(体育科)教育学の観点から書けるのは,彼ぐらいなのだろう。
ちなみにではあるが,『体育科教育』は1953年の創刊号から1998年までのすべての号の目次がExcelファイルになっている。
そこで,ある人が調べたら,高田典衛さんが頻出名トップで,次が高橋健夫さんだったそうだ。
その後10数年のことも含めると,高橋さんがトップなのかもしれない。
さて,この4月号は,特集が「体育から取り組む学級経営」となっている。
体育同志会からは,黒川さんと教え子の井上くんが「体育授業と学級集団の育ち」というタイトルで書いている。
そこでは,矢部実践が取り上げられていた。
その矢部さんは,1月号の特集「体育と生徒指導」に書かれていたが,読んだ感じでは書きにくそうな感じがした。
内容についてはよく覚えていないが。
でも,「生徒指導のために体育をやっているわけではないんだよな~」ということかな。
ここから本題であるが,生徒指導というのは,今では行政の用語である。
かつては生活指導といっていたが,それを差異化するために行政では,生徒指導というようになってしまった。
生活指導は,なんとなく「修身」のような感じがするが,そうではなく,民間の側から出てきた「生き方の指導」実践でもあった。
生活綴方もだから,生活指導なのだ。
そして,戦後の新教育を見ると,「コア」「スコープ」「シークエンス」などと並んで,民主主義教育の必須アイテムが「ガイダンス」であった。
「オリエンテーション」もそうである。
僕も佐々木賢太郎さんの実践記録を分析していたこともあって,「生活指導と教科指導の統一」とかを英語にする必要があって,調べてみたら,まさに生活指導=ガイダンスだった。
ところが,生活指導を領域概念として教科指導と対置してみれば,生活指導の意味はなんとなくわかる。
しかし,機能概念として「生活指導とは何か?」というと,意味がよくわからないのだ。
つまり,ガイダンスというと,「教育実習直前ガイダンス」だとか,日常用語としてあんなことするんだよな,ってわかる。
しかし,それを「教育実習生活指導」というと,それはまた違う話になる。
教育実習における生き方の指導ではないから。
というか,「いやそんなつもりではありません」という感じか。
日本語と英語で,日本語の生活指導(シニフィアン)の概念(シニフィエ)と,英語のガイダンスのそれとが一致しないということなのだろう。
民主主義の成熟度の違いか?
でも,教育実習では,実習ガイダンスと実習オリエンテーションなるものがある。
でね,相手に失礼のないように,実習オリエンテーションのためのガイダンスもやられている。
なんのこっちゃ,でしょ。
この場合のガイダンスは,どちらかというと生徒指導という意味あいが強い。
大学生だから学生指導だが,それはそれでまた違う意味を包含している。
ガイダンス=生徒指導とは,頭髪,服装や身だしなみ,言葉づかいなどを注意するのだ。
こちらから実習先に送りだすわけだから,失礼のないように社会人としての常識のようなことを学生に告げるわけだ。
そして,実習オリエンテーションは,僕らの場合,実習をお願いしている小学校で行ってもらうものだ。
実習の概要や,一日の過ごし方などが実習先で学生に語られる。
そのガイダンスもあるといったが,これは何時にどこに集合して,その際にイヤホンで音楽を聴かないとか,服装だとか,いろいろ指導する。
それでも,ときどきトラブルがあったりする。
でもね,実習ガイダンスが実習のための生徒指導(学生指導)というのはわかる気がするけど,「体育と生徒指導」となると,体操服や靴の履き方や話の聞き方,体操座りなどを指導するというわけではないから,またややこしい。
生活指導も,全生研的な生活指導は,「生活」が集団での生活という「場」として用いられるが,生活綴方的な「生活」は,まさに生活の現実であった。
とはいえ,1960年代に,数教協の遠山啓(とおやまひらく)さんたちが,生活綴方を批判したときに,「生活」というよくわからない概念を持ちだしてくる・・・・とかいって批判したんだったような(手元に資料がなくて・・・)。
「教えるのに,現実の生活を通すしかなかった時代ではないのに,科学的な指導をどう考えるのか」というような批判だったような気がする。
これは,体育同志会が21世紀型の生活体育を考えるにあたって,抑えておかねばならないポイントでもある。
体育同志会も,直接生活綴方を批判したわけではないが,60年代の科学化の波に乗ったわけだし。
その際に,国家カリキュラム(指導要領)に乗っかった上でそれに対抗して,生活指導はまさに領域概念として,教科指導からは切りはなしたのだから(多分そうだと思う)。
何の話をしていたのかわからなくなってきた。
『体育科教育』に連載をすると,体育同志会の「生活」概念をどうするのかという話になってしまった。
そうそう,この文脈で何が言いたかったかというと,来月号の特集が「貧困」だそうだ。
だから,「生徒指導」(1月号)「学級経営」(4月号)「貧困」(5月号)とまさに生活指導のような内容が続いているということだ。
ここに編集者の意図があるのだろうが,それは学級での体育授業が成り立ちにくくなっているということなのだろう。
美しい教育理念や,まぶしい子ども観に隠れた現実は,そういうことなのだろう。
だから,教師の問題ではなく,教育条件の問題として,行政に向けていう必要があるのだと思う。