体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

物語るということについて

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,うまく書けるかわからないのですが,「物語」あるいは「物語る」ということについて考えてみたいと思います。

 

最近,実践記録のことをいろいろ考えるのですが,どうも思考が広がりすぎてすっきりしたものになりません。

でも,「広がりすぎる思考」,「すっきりしない」というのが僕の特徴なんだと思います。

物語の中身の問題というよりも,物語り方の問題です。

そのことについて思考を展開してみました。

では,どうぞ。

 

昨日は土曜日だったので,寅さんの日だった。

寅さんの物語は,非常にシンプルだ。

寅さんがマドンナとうまくいかないで終わる。

昨日は,八千草薫と一寸やばい展開だった。

「うまくいかないで終わる」とわかっていても,ドキドキした。

うまくいって結婚なんぞしては,それは寅さんではない。

もしそれがあるとしたら,監督がもうやめようと思ったときかもしれないが,それより先に渥美清さんが亡くなった。

 

水戸黄門にも一定の物語の型があり,それを含めた時代劇も同じ話形が繰り返される。

吉本新喜劇もそうだ。

映画なんかでは,大切にしていた何かを取り戻しに主人公が旅に出て,そこでじゃまする相手を倒しながら成長し,そして最後は奪還するという話が多い。

村上春樹の小説は,いつも「あれっ?これでおわり?」となるし,大団円とならないのだが,それも一つの形。

 

モーツァルトの音楽も,聴くとモーツァルトとわかるような形をもっている。

ということを,昔,院生だったときに,音楽の院生さんが報告をしていた。

中村敏雄さんの文章の書き方もそうだ。

 

小説にしても,音楽にしても,作り手の意識的な創作の部分と,無意識にもっている構造のようなものがあって,その無意識の構造が意識的な創作に影響を及ぼしているのだ。←ここ重要ね。

私の中にいる,他者のような存在。

これって,そもそもフロイト的な物語かもしれないが。

 

私たちもまた,文章を書くときにある種の構造をもっていて,その構造から逃れられずに書いているのだろう。

その構造が,私が語る物語の枠組みとなっているということだ。

 

こんなことを考えているのは,実践記録が客観的であるべきだとか,記録そのものを科学の俎上に載せることができるのか,という議論があったときに考えていたこととつながる。

僕は,この問題は,現象学的な知覚理論で説明できるような気がする。

もっとも,その理論だと客観的だということはあり得ないし,科学的でもない。

ただ,知覚の不可擬性を探すだけなのだが。

 

そして,そのフロイト的なというか,構造主義的な目には見えない構造があるという考え方にもすごく共感できるのだ。

もっとぶっちゃけると,私の語ることは全部私の物語であって,客観的では全く無い(ウソを言っているということではない)。

どういうことか?

 

僕は,いわゆるビジネス本というのか,仕事術や整理術という本を読むのが好きだ。

読んでできることと,できないことがあるが,たまにできることがあってやる(ファイル術とか,逆算的思考とか,小さいことをまずやって弾みをつけるだとか)。

そうすると,自分が仕事をするときのスタイルが身についていく。

それを言葉で物語るときに,僕の仕事術となるわけだが,それは人が聞いても,参考になる部分とならない部分があると思う。

僕の物語は,人の作っている物語と違うということだ。

僕が参考にした本(物語)が,僕には役に立たない部分があるように。

 

これは実は,トレーニングがまさにその通りなのだと思う。

僕は,学生時代に円盤投げをやっていた。

これはある意味で,「孤独な心的生活」に入っていけるので,いろいろなことを考えながらトレーニングした。

だから,自分なりのスタイルを自分なりに身につけた。

 

が,ある人に「違う」といわれて,ショックを受けたことがある。

その人は,「間違っている」という意味で,「違う」といったのだろうが,今となっては,「私の考え(物語)とは違う」というべきなのだと思う。

 

今やっているマラソンのトレーニングもそうだ。

僕もいろいろ参考にしながら,でも自分の身体と相談しながら自分なりにやっている。

あるときに,超有名なコーチの本を参考にして,トレーニングの強度を上げてみた。そしたら,すぐに体調不良になった。

だから,このコーチのトレーニング方法の物語は,とくに,右肩上がりのランナーやストイックなランナーには,汎通性の高い方法なのだろうが,中年不良ランナーの僕の物語には入ってこない。

 

この言い方が僕の物語なのだが。

つまり,そのトレーニング方法と体調不良に,因果関係をつけてしまっているのだ。

トレーニングなのだから,まさに多くの人がそうやればうまくいくという原理的な部分と,その応用と考えればいいのだろうが,自分は別の人の物語を採用した(という物語を採用した)のだ。

 

しかし,世の中はそうやって,自分の経験をベースとしながらも,他人から聞いたこと等を試しながら,自分の物語を作り上げていくことを日々行っているような気がするのだ。

学校の先生なんて,毎日毎日試行錯誤の繰り返しで,自分の物語を作っているのだ。

でも,残念ながら語る言葉を持たない先生や,語ったことのない先生は,物語を作れないよ。

その物語は主観的かもしれないが,客観的によいとされているものよりも自分にとってはより確かなものだ。

 

子どもを教育するということも,子どもたちに自分の物語を作らせることが目的なのかもしれない。

字を教えることや振る舞い方をを教えるそのことの先にある。

テストで1点を多く取ったとかでは全く無い。

 

そういう意味で,子どもも綴るという作業は欠かせないのかもしれないが。

僕は小学校5年生のときに(おおっ息子と同じだ),担任の先生に日記を書くようにいわれて,提出もした。

しかし,全然書けなかった。

3行しか書けない子だった。

 

でも,今では,毎日日記を原稿用紙で5枚以上は書いている(今日は7枚)。

書けるようになるのだから,子どもには無理をさせない(という物語)。

すこし一般的な話(抽象的な話)にすれば,例えば,「生きづらさ」という言葉や,その内実にあたる言葉を,それらを抱えている子どもあるいは,それを見ている人に与えて物語らせることが大切なような気がする。

言葉がないから,しんどさが共有されないし,共有されないから癒されない。

それは,嬉しいときも同じで,表現方法をもつということだ。

 

そして,僕ら(教師たち)は,子どもとの物語を書いて,それを共有して,議論する中で,自分の物語の枠が広がり,物語る言葉を作り出し,新たな物語を作り出すことができるようになるのだ(という物語)。

これは,科学的ではないが,自分の生の物語なのだから,そちらの方が尊い。

 

こんなことが書きたかったのかどうかは今となってはわからないのですが,書いた後で思考がわかるという原則に従えば,こんなことが書きたかったのだろうということになります。

わかりにくい話ですみません。

 

 

 

 

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