体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

「はぐくみ」(滋賀支部ニュース3月号)より2 加登本さんの研究ノート

こんにちは。石田智巳です。

 

滋賀支部ニュース「はぐくみ」3月号で,滋賀大学の若い研究者である加登本さんが,「テクストデータから『内部者の視点』を読む」という大変重要な視点を提供してくれています。

普段はあまりやらないのですが,研究者が書いた文章なので,そのまま載せてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

昨日は,滋賀支部長の澤さんの文章に感動したので,そのことを書いた。

こういうときって,名前を出していいものなのか,難しいところだ。

でも,匿名にするとあの独特な雰囲気が伝わらない。

僕はよく言うのだが,書かれた文章は,そのままでは単なる文章でしかないが,誰が書いたのかがわかると,途端に文章がエロス性を帯びてくる。

 

澤さんが「エロい」のではなく,澤さんの「エロス性」だ。

言い換えれば,澤さんがあの高い声で,あの目で,こちらに語りかけてくれるということだ。

だから,澤さんの中学校に昼前に電話をして,本人に了承を得たのだ。

 

昨日は,つぎはぎ的な引用をしたので,よくなかったが,付け足し。

「アホになるな、アホにさせられるな。諦めたら負けや。賢くなろう、みんなで賢くなろう・・・」の部分を紹介をした。

 

この引用の前は,「皆さんもこの年度終わりにぜひ一度ゆっくり時間をとって、自分自身のこの1年の実践、教師としての自分を振り返ってみてください。そして『息吹の会』で、話し合ってみてください。きっと新たな目標が見えてくるはずです。アホになるな,・・・」だったのだ。

 

すごいでしょ。

これ,行をかえずに,そのまま続けている。

冷静にずっと「ですます調」で書いてきて,残りが少なくなってきたら,突然,目を見開いて,顔を紅潮させて,こちらに近づいて,やや取り乱したように,「なるな」,「なろう」,「負けや」,「来い」,「あるはずだ」と語りかけてくる。

そして,最後は,「思います」で冷静に終わる。

人心収攬の術なんだろうが,無意識にやっているのだろうね。

 

 と,人の書いたものに勝手に(勝手な)分析を加えてみたが,このような(?)テクストデータの読み方を加登本さんが書いてくれている。

これは,明らかに冬大会を意識している。

というのか,加登本さんは冬大会は不参加だったので,「はぐくみ」2月号のこれもまた澤さんの冬大会の感想を読んで,研究局に対してアンサーソングを書いている(と思う)。

 

さっそく,連絡を取って紹介したいと述べた。

「はぐくみの件ですが、是非ご紹介いただき、ご批正いただければ幸いです。同志会実践が、研究として評価されるための表現方法を私なりに考えています。」との返答を得た。

相変わらず丁寧だ。

彼は,木原さんのところで博士号をとったのだが,小学校では林さんに教えてもらっているのだ。

 

以下は,全文引用。

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 今回は、実践研究をするうえで、子どもの感想文や発話記録などのテクストデータ(文字データ)をどのように分析するのか、という点について1つの例を紹介します。

 テクストデータは、子どもの触球数や記録、アンケートのような量的データと異なり、質的データの部類に入ります。質的データを量に置き換える分析方法もありますが(例:感想文を「技術に関する記述」、「友だちに関する記述」などのカテゴリーに当てはめて数を数えるような場合)、それではせっかくの質的データの豊かさ(意味)が失われてしまいます。Aくんがこの時間に「できた」という事実と、Cちゃんがこの時間に「できた」という事実とでは、意味が違うだろうと思います。「意味」というのは、歴史的文脈(どうだった子がそうなったのか)と、社会的状況(どのようにそうなったのか)によって決まるとされています。これらをまるごと理解したうえで、変化を分析する必要があるのです。

 また、授業の分析が、「主観的な作文」とみなされるか、「質的研究」とみなされるかは、記述の「分厚さ」によって決まると言われます。「分厚い記述」とは文字数が多いことではなく、「内部者の視点」を含めて書かれているか、という点が重要です。「解釈」と呼ばれる事実に対する意味づけは、教師目線だけでなく、子ども自身の感じ方、思いを読み取ったうえで行う必要があります。

  

               

図 2つの解釈過程(柴山真琴『子どもエスノグラフィー入門』2006年、p.74)

 *図はコピペできず。そのため,省略(石田)

 

 手順としては、まず「解釈過程A」にあるように、事態(出来事)に対して行為者(子ども)自身がどのように受け止めているのか、を行為者の立場に立って解釈します。そのうえで、「解釈過程B」にあるように、「行為者が事態をどのように受け止めているのか」をふまえて、行為者の課題や変化を観察者(分析者)として解釈します。こうした作業は、教師は日々の生活指導(生徒指導)でも行っていることだと思いますし、「たのスポ」に載っている実践報告でも、こうした「内部者の視点」が滲み出ているものが多いです。研究としては、あとは「データに基づいているか」が問われることになります。

 感想文の分析にしろ、子どもの「声」の分析にしろ、文字通りに分析することには疑問がもたれます。ヴィゴツキーが辞書的な「語義」と、社会文化的な「意味」との違いを主張しているように、書かれた文字(あるいは書かれていないもの)から、そこに潜む「意味」をこちらが読み取らなければいけません。その一例として、庄井良信さんが提案している「授業分析記録」という書き方があります。

 

表 臨床的アプローチの分析記録(庄井、1992p.44

発話主体

授業における対話の過程

発話の分析

発達課題の分析

誰が→誰に

◆「語義」の記述

―発話表現の記録―

(表情、イントネーション)

◆「意味」の分析

―発話テーマの状況的分析―

◆状況的分析

①認識手段

②交流手段

 

授業で教師がこう言った、子どもがこう言った、という実践記録は「TC法」と呼ばれ、昔からよく目にします。この表にある分析記録では、子どもがこう言った(「語義」の記述)に加え、ここであの子がこう言ったということはこういうことが言いたかったのだろう(「意味」の分析)という分析を加えます。さらに、ここであの子がこう言ったということは、あの子にはこういう課題がありそうだ(発達課題の分析)という分析を加えます。

実際に子どもが書いたもの、話したこと(テクストデータ)を示しながら、それを文字通り読むのではなくて、「内部者の視点」(意味)を解釈して分析する必要性を紹介しました。大阪支部で取り組まれていた「ポドテキスト」研究と似ているかもしれませんね。

ここまで書いてきて、「意味」は誰が決めるのか、という問題があります。100人で実践記録を読めば「意味」にたどり着くのか、担任ならわかるのか。そのあたりも今後検討したいと思います。

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今年の冬大会は,ひとまず加登本さんに登壇をお願いしないといけないかな。

3月の全国常任では,冬大会の総括が(まだ)求められているので,このあたりを視点にした前向き(次回に向けた)総括にしたいと思います。

 

加登本さんへ

研究者が書いたものを勝手にいじくりまわすのは失礼と思いましたので,そのまま載せさせていただきました。

また続きを書いてください。

 

http://tomomiishida.hatenablog.com/