体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

走り幅跳び実践の系譜 塚田実践を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

前に,『たのしい体育』シリーズの2を読んで,走り幅跳び実践の話を展開しました(『たのしい体育』シリーズ1と2が手に入りました。その2 )が,今日はその続きになります。

本来は,「その3」とすべきなのでしょうが,自分もわからなくなるし,読んでいる人もわからなくなるだろうと思って,やめました。

単に面倒だからという言い方もできます。

では,どうぞ。

 

前回は,体育同志会が出した『たのしい体育』シリーズの2「投げる とぶ」の最初の岨さんの文章にざっと目を通して,そこから話を広げた。

岨さんのところには,走り幅跳びでは踏切前3歩が大切になるので,そこの歩幅を測って事実を目に見えるようにすることや,踏切を越えることは川に落ちるなどの生活的な意味があることなどを教えることが書かれていた。

 

そこにインスパイヤーされて,久保健さんの『体育科教育法講義 資料集』に収録されている4つの幅跳びの実践に言及しようとした。

しかし,最初の佐々木賢太郎さんの「踏切線の学習」で終わった。

この実践こそ,本邦で最初に歩幅を測った(とされる)実践なのだ。

 

で,佐々木さんの実践は,「からだづくり」の体育を目指しており,踏切線に支配されるのではなく,踏切線を支配,我がものにすることが目指されていた。

それを佐々木さんは,踏切線という形式から自分の幅跳びという内容へ,「形式から内容へ」と表現する。

この実践が,『体育の科学』に掲載されたのが,1960年の2月。

 

その後,同じ『体育の科学』に,宇都宮の塚田実さんが幅跳びの実践「私の実践<走り幅跳び>から」を載せる。

これが1963年の4月。

塚田さんは,戦後の体育を語る上で欠かすことのできない役割を担っている。

小学校の教師だったこともあるが,体育で実践記録といえば,佐々木さん,亀村五郎さん,そして小関太郎さん,塚田さんの名前が挙がる。

 

亀村さんは『考える体育』という本を,佐々木著『体育の子』と同じ1956年に上梓している。

その後,体育で出てくることはあまりなくなったが,一定のインパクトを残した。

佐々木さんと亀村さんの実践記録を読むと,全く違うにおいがする。

これについては,機会があれば紹介したい。

 

で,塚田さんの実践である。

5年生の実践である。

塚田さんは,最初に,「踏切線不要論」という見出しで書き出す。

実践記録は,実践をありのままに書くのではなく,自分の思いやねがいとそれを子どもたちとどう実践したのか,どんな方法や内容で実践して,どんな成果を得たのか,得なかったのかを中心にして書く。

 

だから,「踏切線不要論」というのは,塚田さんの意見表明に他ならない。

じゃあ誰に?

もちろん,「踏切線を決め,ファウルしないようにしてできるだけ遠くへとぶ」というねらい(指導要領かな?)に対してである。

それ以上に,佐々木賢太郎さんの「形式から内容へ」にもの申しているのだ。

 

このあたりは,かつての体育同志会でもおそらくそうだったと思うが,5年生と中学生の違いをあまり考慮に入れていない発言だと思う。

発達というのが,教育の対象になるのは,ピアジェが紹介されて,それが浸透する頃だと思うので,もっと後のような気がする。

というか,先鋭的な研究者や実践者はこの頃になるのだろう。

 

なぜか?

1958年の学習指導要領は,小学校で1961年に,中学校で1962年に実施される。

これは有名な話で何度も書いているが,指導要領が法的拘束力を持つと云うことは,ある立場からいえば,「国民の教育権」あるいは「教育課程の自主編成権」が奪われたということである。

だから,対抗するためには,教育課程の自主編成をやって,オールタナティブを出す必要があった。

 

教育課程を編成するということは,かつて(戦後すぐ)の言い方では,スコープ(教材領域)とシークエンス(発達)を明らかにする作業を行うことであり,そのためには,発達に着目しないといけなかったからだ。

 

教科研で、部会の名称が変更して,○○と認識部会となるのは、1961年のこと。

体育は「身体と教育」部会だった。

体育同志会では,それが「系統(性)の一人歩き」が指摘される1970年代に起こる。

そこで活躍するのが,子どもの認識発達を研究された阪田尚彦先生だったりしたわけだ。

 

おおっ,塚田実践はどこへ行った?

戻ろう。

ともかくも,塚田さんは,意図的にだと思うが,佐々木実践にもの申している。

しかも,3ページしかない記録の1ページを使って,「踏切線がじゃまという子どもの思い」,「子どもの願い」,「跳ぶ主体としての子ども」から踏切線不要論を展開する。

 

そして,次が「踏み切り『地帯』の誕生」というタイトル。

ここがこの実践そのものの記録。

塚田さんは,子どもたちに自分の好きなところから踏み切って跳ばせる。

でも,そうするとだいたい1m50cmの範囲に,踏切足がきていることがわかるという。

 

そこで塚田さんは,その範囲に石灰をまいて白一色に塗りつぶす。

巨大な踏み切り板のようなものを作ったというわけだが,そこから跳ばせていく。

そこで,子どもたちはいろいろ考えながら,相談しながら,お互いに批判しながら,跳んでいく。

こういうときに,塚田さんも綴方教師だけあって,子どもの作文が効果的に実践記録に挿入される。

 

こうやって跳ばせていると,子どもたちの踏切はさらにより狭い範囲に収まってくる。

そこで,この1m50cmをさらに狭く,50cmにしてしまう。

その結果,「学習のはじめ頃,しきりに踏切線不要論を主張してきたこどもも,ジャンプする場所(めやす)がはっきり決まっていた方が,全身の力を『跳ぶ』という1点にまとめることができるという,踏み切り線本来の意味を認識するまでになったのである」。

 

ということで,塚田さんは,佐々木さんの「形式から内容へ」に対して,「内容から形式へ」という筋道を示したのであった。

そして,ここでは50cmの踏み切り地帯が作られたのであるが,これは既成の踏み切り線とは違う文化創造ともいえるのかもしれない。

 

この実践を紹介したら,えらく気に入った学生がいた。

僕もなるほどと思う。

ただ,敢えて書くならば,子どもたちが「内容から形式へ」と進むなかで,何を手がかりにして踏み切りの形式を創り上げていったのかを知りたいところだ。

なんとなく,やっているうちに足があったというのでは,1時間の授業が終わって,次の授業に向かうときには,リセットされるような気がするのだ。

 

走り始めの位置,歩数,踏み切り足などはどうするのだろうか。

そこは塚田さんの興味にはなかったのかもしれない。

これは,実際にやっていないという意味で「興味がない」のかもしれないし,実際にやったけど,実践記録として書くのには「興味がない」のかもしれない。

今となっては知るよしもないのだが。

 

おもしろいでしょ。

佐々木-瀬畑論争のような実践の理念に対する批判ではなく,実践の事実のぶつけ合い。

どっちがいいか決めるのは,読者。

 

体育同志会もこうありたいものだ。

 

 

 

 

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