体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

白浜集会の話 2日目 笠原悌二郎さんの話

こんにちは。石田智巳です。

 

白浜集会の話は,これまで書いていても,ちっとも進みませんでした。

どうしても,自分の研究対象の話だから,しゃべった内容以上に紹介できなかった内容が出てくるので,ついついだらだらとしゃべって(書いて)しまいます。

なんだが,思い出し笑いのようです。

ということで,佐々木賢太郎さんの話は続けるにしても,白浜集会の話に戻ります。

2日目(2月8日)の様子です。

では,どうぞ。

 

白浜集会は,当初,僕が1日目の午後に佐々木賢太郎さんの話をして,2日目は佐々木さんの実践を味わってみることにするか,実践記録を書こうという話をすることになっていた。

しかし,僕の連投では変化がないから,他の人に佐々木さんのことを語ってもらう機会をつくったらいいのではないかと思った。

 

そして,笠原悌二郎さんに来てもらって,話をしてもらうというのがいいと,具申した。

そしたら,本当に来てもらって,話をしてもらえる運びとなった。

この具申は,1月28日のブログ上で語りかけたら,夜にメールで返事が来た。

ブログがいい役割を果たしている。

 

笠原さんと佐々木さんの出会いは,すごく面白い話だった。

1日目の飲み会とかでも,そんな話になったが,「それは明日のネタです」といわれて教えてくれなかった。

でも聞いたので,ここに書き記すのである。

 

笠原さんは,東京生まれの東京育ち,大学は東京教育大学でバレーをやっていた。

ちなみに高校,大学の2つ下に草深さんがいる。

だからもう70ぐらいだ。

とても元気な方だった。

 

で,笠原さんは大学2年の時に,古本屋で『体育の子』の初版本を見つけて,買って読んだそうだ。

それで,田舎で教師をすることに魅力を感じたという。

ところが,そのとき,著者のことも,それが和歌山のことだったことも気にとめていなかった。

それで,当時は教員採用試験がいろいろ受けられたので,和歌山県を受けたら受かって高校教員をスタートさせた。

 

最初は,串本にいて,バレーを強くして県の代表にした。

その実績が買われて,和歌山市の和歌山北高という今でもスポーツの強い学校に転勤になる。

それで,そこの教員をしながら,なぜか近くの学校の定時制で授業を持つことに。

そのとき,病院に勤務をしながら学校に通っている人もいて,夜勤とかもあるようで,定時制の教育の問題を肌で感じたそうだ。

 

どうしたらよいか悩んでいるときに,養護の先生に「面白い先生がいるから一度会ってみたら?」ということを云われた。

それが,佐々木さんだった。

細かいことは省略。

 

笠原さんは,また紀南に戻るのだが,そこで佐々木さん(それまでも知っていたが)に会って話をする。

佐々木さんは,田辺の高校の先生をしていたので,一度串本の家に遊びに来てもらった。

そうしたら,佐々木さんはそのとき笠原さんに,「1日1枚ガリを切ってください」といわれたという。

 

ガリというのは,ガリ版刷りの印刷物のことだ。

説明が難しいんだけど,ガリ版とは鉄のやすりのようなザラザラした板の上に,油紙を置いて,鉄筆で字を書いていく。そうすると,その部分がくぼんで(下敷きを敷かないで鉛筆で強く書いて,裏から見るとくぼむでしょ),それが版画のようになる。

1日1枚ガリを切るというのは,実践記録を書くということだ。

 

佐々木さんは,「私も若い頃はそうやって毎日やって,『体育の子』という本を出したんですよ」といわれた。

そのときに,笠原さんは,「『体育の子』は持っている。あれを読んで田舎で教師をしようと思った」ということを伝えた。

まさか,あのときのあの本の著者が,今目の前にいるこの人だとは,全く知らなかったし,それが和歌山の話だということもそのときに知ったのだ。

 

笠原さんは,それから佐々木さんの鞄持ちのようになって,講演があればついて行き,録音をしてテープ起こしをしていたという。

今回は,「よきのこだま」の映画は見られなかった。

代わりに1970年代の終わり頃,佐々木さんが55歳のときの講演のテープを再生してくれた。

 

とても,若くて張りのある声だった。

和歌山弁というか紀南弁だったが,聞きにくくはなかった。

そして,話は「かおるの体育」という南部中学校(あの南高梅のみなべ)の実践の話だった。

 

僕はこの話がとても好きだ。

だから,僕も佐々木さんの話をするときに,時間があればこの話もする。

なければしないが。

もう一つ,好きな話があるが,それは資料としてつけて皆さんにはお配りした。

 

ところで,実は,原先生が『体育科教育』に佐々木賢太郎さんのことを書いたときにも,この「かおるの体育」の話を載せていて,それを資料で配ってくれた。

僕も,この話の最初の報告(雑誌)を,今回の資料として載せておいた。

そして,1991年に和歌山支部が結成されたときの最初の支部例会で,佐々木さんが講演したときの映像をDVDに焼いたものを持っていった。

それで,佐々木さん本人に語ってもらった。

それが,「かおるの体育」の話だった。

 

奇しくも,3人とも同じ話を用意していた。

この話はまた今度書きたいと思う。

 

笠原さんは,その後,校長になられた。

それは,職員会議で生徒の進級や退学などの重大な問題が起こっても,一教員では声が届かないので,自分が校長になったという。

かつて,それこそ勤評闘争で佐々木さんが郡外の南部中学校に,報復人事をされたような時代ではなく,「校長はもはや敵ではない」という時代だし,そうしていかなければならないと使命感を感じたのだと思う。

 

そうやって,1時間の持ち時間を軽くオーバーして,1時間40分ほど話をしてくれた。

そのため,僕は残りの時間で,さっきの「かおるの体育」とは違う,例の好きな話の概要を説明して,実践記録を書くことの意味を語った。

 これで,予定していた白浜集会の内容は終わりだが,まだ紹介したい話がある。

 

それは,また今度にします。

 

 

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