体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

佐々木賢太郎さん,紀南作教へ入会

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,白浜集会の模様を描こうと思っていましたが,PCを忘れて書けませんでした。

そのため,佐々木賢太郎さんの話の続きです。

前には,紀南作文教育研究会(紀南作教)の前身である,『教師の友』紀南グループが誕生する経緯を紹介しました。

今日は,ずいぶんと回り道をしましたが,真鍋さんと藤田さんと佐々木賢太郎が出会うところを描いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

『教師の友』というのは,1950年12月創刊の教育系の雑誌だ。

この雑誌の復刻版を持っているが,これを読むと論争だらけでかなり面白い。

とにかくみんなが日本の教育をつくっていくのは俺たちであって,役人ではないという気概にあふれているようだ。

そして,1950年には,綴方の会ができて,翌年「日本作文の会」となり,その年がいわゆる綴方復興になる。

 

そこに,小学校教師の若い真鍋精兵衛さんと藤田伍与さんが,サークルをつくったわけである。

この辺の事情は,特に藤田さんが細かく記述している文章がある。

これは面白いのだが,和歌山にいてもなかなか手に入らないと思う

また必要があれば紹介したい。

 

さて,『教師の友』紀南グループができた1951年10月の最初の会合に佐々木さんは行っていない。

結成当初のメンバーではない。

佐々木さんは,戦争が終わってもレンパン島に捕虜として残っていて,1946年7月に復員する。

 

その年の12月に母校の田辺商業学校に勤務するが,1948年の3月で退職する。

実家が旅館をやっていただったかで,商売を志そうをするが,結局,その年の5月に新制の白浜中学校に体育教師として勤務することになった。

 

この年には,バレー部を作り紀南4校でのリーグ戦を開催するなどクラブ活動に力を入れはじめる。

この練習のため,「夜おそくまで,男女の生徒をのこして猛練習をして,夏休みは毎日と全くのところ無我夢中にて唯一途に上手にしてやりたいと」いう思いで,子どもたちを鍛えつづけたという。

1950年には町民バレー大会を開くなど地域のスポーツを組織している。

 

一方,体育の授業では,かなり高いレベルでの技術を身につけさせていた。

例えば,教科のみならず業間での練習や放課後での努力によって,鉄管を使った鉄棒でありながらも,「中3では,鉄棒は『蹴上がり-巴-あしかけ。』をほとんど行え」,また幅跳びでは,「女子の3年生にて平均,3米60」であったと述べている。

 

同時に,「当時の白浜中学校の校長が西牟婁郡体育連盟の会長だったこともあって,49年段階から学校が体育の実験学校」になる。

これは佐々木さんの記憶だが,若干違う。

僕は,和歌山で調べ上げて,「和歌山県実験学校紀要」なるものを手に入れた。

 

そこには,白浜中学校の昭和22年~24年の研究の主題,研究発表,研究物などが載っていて,そこに佐々木さんの名前も出てくる。

「特別教育活動に於ける体育部の実際 教諭 佐々木賢太郎」,また,「研究物」としては,「白浜中学校体育部の組織及運営」30頁 40円 特別教育活動に於ける体育部の組織及運営の実際をあげ成果体育との連携についても詳述したもの」と書かれている。

 

これは,丹下保夫さんがいわゆる行事単元を構想する前であるが,特活と正課授業を結びつけているという意味では,体育同志会的な生活体育だといえる。

これは,新しい発見,新説を立てよう。

 

で,おそらく1949(昭和24)年からも行ったのだろう。

「①こどもの個人差の研究(S24~26)体力測定,調査,②事例研究,③指導法の研究,④クラブ運営についての実践」を行うことになった(佐々木「戦後体育の20年」,『体育の科学』1965年12月号,p.690-694)。

 

1951年に行われた研究発表で佐々木さんは,「豊かな体力はどうあるべきか」ということについての調査,測定の結果,「個人差がある」と報告したそうだ。

すると,その報告を聞いていた真鍋さんと藤田さんから,「そこからが大事と違うか。なぜそういう低い体力の子ができているのかということを考える必要があるんじゃないか」(これは,宮教大の中川州子さんという当時の学生さんが聞き取ったことが卒論に書かれている)。

 

「佐々木君,君のよくやるのはわかっているけど,個人差にしても,なんのために個人差が大切か,なぜ個人差が生まれるのか,体力がなぜ必要かといったところの子どもの体育教育をうけた姿が,技術と体力一点ばりで,どうもおかしい」(佐々木,1965)。

 

また,「地域の生活を見つめる中で,体育の現実を明らかにし,体育をみていかぬと,現象面の個人差があるとしても,『なぜ個人差の矛盾があるのか』と,『もっと,自己の生活をとおして子ども自身が,自分の体が差がある事実をつかまさないと,たんなる研究になって研究にはならない』というするどい,教育として個人差研究をふかめ生命を与えよ」と警告された(佐々木「紀南作教の体育教師」,『紀南教育』96号,1972)。

 

当時,白浜小学校に勤務していた真鍋さんたちとの出会いであった。

佐々木さんは,年下の二人から「いつも教えてもらった」と振り返るのであった。

 

1951年に発表があってそこで出会ったということは,結成の呼びかけは届いていたのだろうか。

 

これについては,また書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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