体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

戦後の生活綴方復興について

 こんにちは。石田智巳です。

 

足の痛みに耐えながら生活をしていますが,月曜日に比べると火曜日は本当に楽になりました。

ロキソニンが効いているということでしょう。

 

さて,今日は佐々木賢太郎さんの話を進めようと思います。

前回(1月30日)のブログに書いた中味を進めるという形になりそうです。

つまり,まだ佐々木さんには到達しません。

 

それは,紀南作文教育研究会(略して紀南作教)があるのですが,佐々木さんが参加した理由の前に,紀南作教ができた経緯,そして,そのまえに,戦後の綴方復興の経緯をみておかないと話ができないと思うからです。

とりあえず,今日は戦後の綴方復興についてです。

では,どうぞ。

 

今,手元に『民間教育史研究事典』(大田堯,中内敏夫編,1975)がある。

そこで,「生活綴方」の項目を見ると,中内敏夫さんが2ページ分を割いて説明しているが,「定義」「歴史,「成立」「分化」と続いて,最後の「研究」には以下のように書かれている。

「生活綴方が何であるかということはまだ充分にわかっていない。現在のところでおおよそを知ろうと思えば」・・・として,11の論文や著書が紹介されている。

中内さんといえば,『生活綴方成立史研究』というちょっとした事典よりも分厚い著作がある。

 

その中内さんがそう言うんだから,そうなのかもしれないが,それでは困る。

たしかに,僕も「○○と定義しておこう」とか,国分一太郎の定義を持ってきて,「こう規定しておく」と述べることが多い。

 

たとえば,僕がはじめて佐々木賢太郎さんに関して書いた論文は,前回も紹介したが,「『紀南作教の体育教師』佐々木賢太郎-紀南作教への参加-」であった。

これは,和歌山大学の紀要に書いた文章である。

なんで,紀要に書いたのか,つまり学術雑誌に投稿しなかったのかは,まさにこの生活綴方をどう定義していいかわからなかったからだ。

もちろん,一次資料よりも,二次資料を多く使ったということもあるが。

 

この論文では,最後の最後に,以下のように書いた。

「ところで本研究では,意図的に避けてきたのであるが,生活綴方ないし生活綴方的教育方法そのものの規定をしていない。それは,紀南作教について研究報告を行った河原尚武も述べるように非常に困難な仕事であるといってよい。では,綴方復興においてはどのように規定されていたかというと,本文にも紹介した1952年の中津川で行われた第1回作文教育全国協議会において,『生活綴方を,銘々勝手に解釈していて,各自が勝手にいいたいことをいうというふうであった』というように,明確な規定は難しいとされている」(石田,2005,p.102)。

 

前に国分一太郎さんの定義を用いたことがある。

それを採録すると以下の通り。

「いわゆる生活綴方は,しいたげられた農民や労働者の子弟に対する愛情のいとなみであった。

ひとくちにいえば,封建的な,資本主義的なきずなによって抑圧された子どもたちの魂を,ありのままの生活を見させることによって,よりよい生活をのぞむ意欲にさおさして,新しい生活を建設する,かしこい知えをみがかせることによって,自由に,民主主義的に,解放させ,組織していこうというものであった」(国分『新しい綴方教室』ほるぷ版,18-19頁)。

 

生活綴方は,国語の一領域としての綴方ではなく,まさに書かせることによる知育,徳育を含めた教育である。

そして,前回,1929(昭和4)年に『綴方生活』という雑誌が出来る頃に始まったとされる。

もちろん,小砂丘忠義なんかは,高知でもっと前からやっていたのだが。

 

でも,1929年にはじまったとして,戦争が激化する1941年には,当局によって弾圧されている。

ということは,たった12~13年間の活動だった。

 

それが戦後に復興する。

面白いのは,それまであった国語科のなかの「綴り方」は,戦後の学習指導要領ではなくなる。

表面的には,綴り方は,「つづること(作文)」となって,作文が一般的になる。

明治の頃には,作文が綴り方になっていき,それは,定型文(文語体)から,口語による自由な表現であったが,戦後,そのベクトルが逆になった。

 

戦後は,軍国主義的な教育は否定され,進歩的な新教育に取って代わられる。

だから,弾圧されていた教師たちも,新教育に乗っかることになる。

その頃は,民主主義を根付かせようと,学校では自前のカリキュラムづくり,生活指導(ガイダンス),話しあいなどが行われた。

体育同志会も最初は新教育の流れに位置づく。

 

しかし,その民主主義とは,アメリカからの,そして東京から配給された民主主義でしかなかった。

新教育批判も出てくる。

矢川徳光はその急先鋒だった。

生活教育といって,新しくできた社会科では大がかりなごっこ遊びが行われたりした。

 

あのころは,右も左も愛国心の喪失を嘆いていた。

右はアメリカの占領下での愛国心に,左はアメリカ教育下での愛国心に。

そこに,戦争時の弾圧にもめげずに守り通してきた民族の教育,民族の方法が浮上する。

それが,生活綴方であった。

生活綴方は,生活指導の方法として用いられていた。

 

綴方復興を図式的に書くとすると次の通り。

国分一太郎が,1949年に「教育新報」という小さな冊子に,「生活綴方の復興と前進のために」という記事を書く。

これが,反響を呼ぶことになる。

後に,『新しい綴方教室』という本になる。

なお,この「教育新報」の復刻版は,『教師の友』の復刻版の付録のような形で全部残っていて,僕はもっている。

ついでに,その前にあった『明かるい学校』や『明かるい教育』の復刻版もある。

 

こうして,1950年になると全国の熱心な実践家たちが結集して,「日本綴方の会」がつくられた。

これが,翌1951年に「日本作文の会」になる。

この年は,先の国分の『新しい綴方教室』,無着成恭『山びこ学校』,さがわみちお『山芋』などが刊行され,綴方復興の年となる。

 

この流れにおいて,紀南にもサークルが出来るのである。

1951年の9月に呼びかけて,10月にできるのであった。

 

*このとき日本は,サンフランシスコ講和条約に調印する。

ここが日本の敗戦処理のねじれの始まりかもしれないが,中国はいないし,ソ連なども調印していない。

つまり,片面講話だったのだ。

 

さて,次回はいよいよ紀南作教の誕生です。

 

 

 

 

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