佐々木賢太郎さんのことを書くつもりが生活綴方のことに
こんにちは。石田智巳です。
昨日は,佐々木賢太郎さんの話を書きました。
今調べてみたら,僕は今日まで221のブログの記事を書いています。
そのうち,昨日や一昨日を含めて,「佐々木賢太郎」という名前は,記事の中に17回出てきました。
でも,佐々木賢太郎さんのことについては,ただ引き合いに出しただけで,なにも語っていないに等しいようでした。
ということで,語ろうと思うのですが,なかなか難しいです。
なぜならば,過去の論文や発表した原稿などを見たのですが,かなりマニアックなことが書かれています(書いたのは僕です)。
歴史研究(授業研究における歴史的アプローチ)が,マニアックであるのは当たり前だとしても,それをそのまま聞かされたらたまらないのでしょう。
あるいは,このブログの記事に,そのまま出されて喜ぶ人は少ないでしょう。
でも,ブログは基本的に,自分が書きたいことを書くものなのです。
だから,難しいのです。
ということで,昨日は僕が佐々木研究に取り組んだ理由について,簡単に述べました。
今日は白浜集会で話す中味を考えるに当たって,佐々木さんの人格をあらわすエピソードについて,いくつか書いてみたいと思います。
とはいえ,例えば『体育の子』を読むことでも,佐々木さんの人格に迫ることができるわけですが・・・。
前置きが長くなりました。
では,どうぞ。
さきほど,10年ほど前に白浜集会で,あるいは前のみやぎ大会(2006年)の前の年に話したファイルを開けてみた。
中味を見て,びっくりした。
昨日書いた,①僕の佐々木賢太郎への道,今日触れてみようと思う②佐々木さんの人格を表すエピソード,それから,③佐々木さんと生活綴方の出会い,④生活綴方に出会ってからの体育授業の様子の変化(実践記録),⑤「生命を守る体育」を唱えた理由,さらに,⑥僕の好きな話を2つ,これだけ話していたのだ。
PPTのスライドは100枚以上,学術論文を3編,さらなる資料と,佐々木さん本人の講演のDVDなどを用いて,一斉の詰め込み教育を行っていた。
よく暴動が起こらなかったものだ。
その代わりに,みんな寝ていたと思う。
冒頭に書いたように,マニアックな中味だった。
自分が論文を書く途中で,小さな発見をたくさんしていて,それらを余すことなく伝えようとしていた。
聞き手のことを考えずに,サービスしようとしても,それでは「寝る」わけだ。
ここまで書いてみて思ったのだが,エピソードもいいけど,そもそも佐々木賢太郎って誰?という人もいるはずだ。
だから,そっちが先か。
ということで,ここまできて予定変更。
佐々木賢太郎さんといえば,『体育の子』(新評論,1956)が有名である。
これは,戦後初ともいえる体育の実践記録集である。
ちなみに,この写真は,1971年の新版『体育の子』である。
1956年の方は,僕は2冊もっているが,学校に封をしておいてある。
古本屋でも売っていないが,10数年チェックしていてはじめて出てきた1冊を,5000円で買った。
古い方が,1952年から1955年までの,白浜中学校,岩田中学校の記録であるのに対して,新版はさらに,1956年から58年までの朝来中学校の実践の記録も載っている。
ところで,これも脱線必至で「綴方」についても触れておきたい。
「綴り方」という用語は,1891(明治24)年に,はじめて「小学校教則大綱」にて用いられる。
読書・・・読み方
作文・・・綴り方
これが,1900(明治33)年に国語科の領域として,「読み方,書き方,綴り方」となる。
それまでは,作文が用いられていたが,そこでいう作文では,定型文が用いられていた。
それに対して,綴り方では,自分で思ったことを書くということになったようだ。
早い話が,言文一致だ。
定型文とは,辞書的な説明をしたり,候文というような文語体の文章のことだ。
例を挙げておく。
「汐干狩りに誘う文
明日ハ天気よろしく候ハバ兼而御約束之汐干狩御共致度御差支無御座候或御返事奉待候不一(小学作文書 巻二,M24)」
「汐干狩り」は,ハイキングでも,スキーでも,マラソンでもよい。
当時はないが。
という便利な定型なのだ。
「不一」とか,今でも時々書かれるでしょ。
今,これを書ける小学生がいたら,すごいことだ。
柄谷行人(からたにこうじん)は,明治の文学を分析し,日本における児童の発見は明治20年代であり,文学における内面を表出したのが明治30年代と指摘した。
今では,二葉亭四迷の言文一致体からの影響,そしてそれを引き継いだ国木田独歩や島崎藤村,夏目漱石など明治の作家による「内面」が発見されたというのは,割と知られている(と思う)。
こういった機運が,教育の領域にも現れたということだ。
そこから,芦田恵之助だとかは教授法としての綴方を,また,「赤い鳥」の鈴木三重吉などが登場して,大正自由教育の流れとも相まって,子どもたちの自由な綴方が出てくるようになる。
このころは,鈴木三重吉以外にも,北原白秋や島崎藤村などの文学者が児童文学の編集に乗り出す。
そこに,教師が児童文学誌に関わる雑誌が出てくる。
そして,その後,教師向けの綴方教育雑誌を作るのである。
それが,昭和に入ってからできた「綴方生活」であり,これが「生活綴方」の第一歩であった。
だから,教科書的にいえば,生活綴方とは,1929(昭和4)年に小砂丘忠義(ささおかただよし)らの『綴方生活』の創刊に端を発することになる。
この雑誌は,「教育における生活の重視」をうたう。
早い話が,芸術主義綴方に,生活主義綴方が対峙したという感じだ。
体育同志会で技術派に,生活派が対峙しているのと構図はとてもよく似ている。
あるいは亀村五郎さんの『考える体育』と,佐々木さんの『体育の子』(ともに1956年)との関係か。
で,ここから,東北では「北方教育」が出てくるように,地方において生活綴方が盛んになっていく。
しかし,1931(昭和6)年は,満州事変の年であり,戦争は激化していき,思想は統制されていく。
生活に表れた社会の矛盾を見つめさせ,綴らせる生活綴方は,当局より弾圧を受けることになる。
だから,生活綴方は,「抵抗」の教育とならざるを得なかった。
ここまで,2600字あまり。
いやはや,戦後の綴方復興の話を書こうと思ったんだけど,つい「綴方とは?」というところからはじめたら,明治にまで遡ってしまった。
佐々木賢太郎さんの人柄も,佐々木さんが何故綴方へ向かったのかも何にもなし。
この分だと,次は,戦後の綴方復興の話になるかもしれません。
つまり,佐々木さんまで行かないかもしれません。
ちなみに,「実践記録」という語は,1930年代に使われるようになるといわれています。
それをはじめて使ったとされる峰地光重さんの本を読みました。
もう,それこそ10年以上前に勉強したことです。
これも,佐々木蔵書にあった本です。