佐々木賢太郎さんのこと1
こんにちは。石田智巳です。
昨日のブログでは,和歌山の白浜集会で佐々木賢太郎さんの話をすることになったという話を書きました。
僕は一応,佐々木さんの研究をやっています。
とはいえ,立場上,いろいろなことをやらないといけないので,佐々木さんの研究は棚上げされています(よく棚上げされます)。
2011年に学会誌に論文を載せてから,しばらくはお休みしています。
なので,思い出すこともかねて,そして,白浜で話すことを考えることもかねて,このブログに書いてみたいと思います。
とはいえ,こういうメディアに簡単に載せていいのかどうか?という疑問も,少なからずあります。
なので,あまり学会的にはならないように書いてみたいと思います。
それも,「思いつくまま,気の向くままに」(『ゴマすり行進曲』(byクレージーキャッツ)というスタンスで行きたいと思います。
では,どうぞ。
とはいっても,どこから書けばいいのだろう。
と思って,昔書いた論文を手に取る。
和歌山大学の紀要に載せた論文だ。
「『紀南作教の体育教師』佐々木賢太郎」というタイトルだ。
発行は,2005年の2月だからちょうど10年前のことだ。
そうか,僕が佐々木研究を始めて10年になるのか。
これをどう考えるのか。
まあいいや。
そうだ。
この話は白浜でもしようかと思うんだけど,僕がなぜ佐々木賢太郎研究をしようと思ったのかを書くことにしよう。
とはいっても,これもどこから書いたらいいのかが難しい。
とりあえず,僕が和歌山大学に赴任したのは2002年の秋のこと。
あの人なつっこい笑顔の原先生のもとへ行くことになった。
それまで,僕は岩国にある短大に勤めていた。
錦帯橋のそばで,橋から5キロぐらいの御庄という「錦川清流線」の駅(新岩国駅といった方がわかりやすいかもしれないが)のそばに住んでいた。
錦川清流線ってすごい名前でしょ。
とてもいい田舎で,錦川ではそこら辺で鮎釣りもされていたし,蛍もいた。
いろいろな思い出はあるけど,あのときは牛タンが安かった。
ベロ1本で1980円とかそんな感じだった。
しかも,高森牛で。
他にもいろいろ思い出はあるが,これはまた別の機会に。
そうそう。
短大では,けん玉を練習したことも覚えている。
学生にもさせていた。
で,僕は1年と半分勤めて,和歌山へ行った。
和歌山に来たんだから,何か和歌山らしい研究をしようと思ったわけではない。
ただ,僕のそのときの研究の興味は,体育同志会における認識研究というか「わかる」ことへの着目がいかになされたのかであった。
それで,戦後体育における初とも言われる佐々木-瀬畑論争を調べていて,そこからさかのぼるように資料を探していた。
*佐々木-瀬畑論争とは,紀南作文教育研究会にいた佐々木賢太郎さんと,体育同志会の中心的な実践家であった瀬畑四郎さんという方の実践論争。佐々木さんが雑誌に発表したバスケットボールの実践記録に対して,瀬畑さんが批判して論争のような形になった。なお,実践記録は3時間目のものであるが,僕は1時間目と2時間目のガリ版のコピーを持っている。
で,この論争はまだまだ論文にされていないことがたくさんあって,それがいろいろわかってきた。
でも,佐々木-瀬畑論争を扱うことは,当時の僕の研究興味ではなかった。
で,調べてみたら,体育同志会で子どもの認識についてはじめて問題にしようとしていたのは,1959年のある雑誌に中村敏雄さんが書いた論文だった。
そこで,中村さんに手紙を書いていろいろ質問をしてみた。
その返事についてはここでは書かないが,それで何となくやる気が失せてしまった。
年度が替わってからだと思うけど,江利川さんという英語教育の先生がいて,その先生が教育史研究会なるものを主宰して,僕もそこにいれてもらうことになった。
学長裁量経費という研究費を申請して,それが通ったとのことで,僕にもお金が配分された。
お金のことを知って,びびった僕は,じゃあ和歌山の体育に関わる歴史研究をやることにした。
でも何を?
ということを原先生に話したら,「こんなんあるよ」と佐々木さんたちのガリ版刷りの印刷物を見せてくれた。
それから,驚くことに,会議室に段ボールが無造作に積んであったが,それが全部佐々木蔵書であった(一部だが)。
それらを全部研究室にいれて,とりあえず読み込んだり,味わったり,いろいろ調べてみたのだった。
こうして,佐々木賢太郎研究が始まった。
ということで今日は終わり。
「『紀南作教』の体育教師 佐々木賢太郎」というタイトルの意味も述べていないのに。
よくあることです。
また書きます。