体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号 久保論考を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号の久保論考を読みます。

「運動文化論のあゆみ,丹下保夫から今日まで」です。

本当は,批評めいたことはしたくないので,批判をせずにうなずきながら読んでいこうと思います。

ただ,丁寧に筋を追うと,まちがいなく1日(1回)では終わらないと思うので,ざっくりと考えたことを書きます。

では,どうぞ。

 

目次を見て,そして,実際に読んでみるとわかるのだが,久保さんが運動文化論の歴史を書き,田中委員長が運動文化論の今後を書くという形になっている。

なるほど。

それにしても,4頁で60年分を書くというのは,すごいことだ。

冬大会で手に取ってみたときに,本当に4頁で書いていたのには驚いた。

と,同時に読むのが楽しみだった。

 

「丹下保夫から」となっているところがミソであろう。

やっぱり,丹下保夫さんが構想した理論なのだ。

だから,丹下さんに当然紙幅を多く裂いている。

運動文化論が生成する当時の時代(教育,社会,政治など)との対応で読む必要があるということだろう。

そのため,1955年という年,あるいは1963年(『体育技術と運動文化』で「国民運動文化の創造」が語られる年)あたりをどんな年として見るのかは重要であるような気がする。

 

次の田中委員長の論考でも同じように時代を大切にしている(が,これは別の日に)。

それは,久保さんも「今日的な情勢と条件の中で」(11頁)と述べ,実は海野さんも「時代と社会が変貌するたびに,その都度,実践と理論を問い直すことが私たちに求められている」(59頁)と述べている。

 

当時が,どういう時代だったのかは,実は僕もよくわからない。

ただ,断片的なことしかわからない。

でも,何となく気づいたことがある。

丹下さんの生活体育論の構想は,これは田中委員長も書いているが,まず茨城県の太田小学校で実験的な研究を,次にそれを生かして1953年から埼玉の浦和市で地域カリキュラムづくりへ取り組む。

 

これって,まだ学習指導要領が「試案」だったときに,カリキュラムは地域単位で作るというアメリカの影響を受けて,日本でも「プラン」づくりがなされていたその1つの形と見ることができる。

だから,「太田プラン」,それを市にまで広げた「浦和プラン」だ。

埼玉といえば,川口プランが有名だ。

川口と言えば鋳物の町で,吉永小百合の「キューポラのある街」が有名だが,あれが1962年の映画。

 

吉永小百合は,上品な娘もだけど,ああいう下町でたくましく生きる娘のイメージの方が強くある。

親父は,水戸黄門東野英治郎で,あの人は,小津安二郎の「秋刀魚の味」にも出てくる(たぶん同じ年ぐらい)が,後の水戸黄門のようなクリーンなイメージは全くない。

それにしても,東野英次郎も,浦辺粂子も,菅井きんも,そして,大滝秀治も,笠智衆(「りゅうちしゅう」が変換されませんでした)も,みんなこの時代からおじいとおばあだった。

それから数十年,おじいとおばあのままだった。

あれれ,話がどっかへいってしまった。

 

あの当時は,新教科として誕生した社会科を中核とした地域計画がおこなわれたりしたが,丹下さんの場合は,とにかく生活体育学校だったのだ。

 

でも,学習指導要領の法的拘束性を持つ1958年は,同時に,勤務評定闘争の年でもあり,それからは組織的にいろいろあったようだ。

伊藤高弘さんから聞いた話だが,埼玉も含めて北関東では,会員が軒並みやめてしまうことも起こったらしい。

もともと,関東周辺を中心とした組織だったのだが。

 

では,1963年をどう見るのか。

東京オリンピックの一年前だ。

教育においては,現代化運動が起こるころ。

体育同志会で,高山博(永井博)さんが,「現代科学の成果を活用するとは」を書くのが1962年。

水道方式に学び,ドル平泳法の成果が出るころ。

 

要するに,現代科学の成果から教育内容を見直すということであり,教科の復権というのが起こる。

教科の復権が起こったというのは言い方がよくないが,生活綴方が1962年に国語の1つの領域になり,「生活綴方的教育方法」という言葉を使用しなくなったということだ。

代わりに全生研が,生活指導を担当するということになる。

 

という時代というのでは,あまりに言い尽くされた感じがある。

もう少し丁寧に時代状況を見る必要がある。

 

久保論考は,ドル平ができて,グループ学習までで3頁。

70年代から80年代のスポーツの主体者形成と体育の学力,そして授業論は,なんと1段(3分の1頁)で書かれている。

それは,さすがに新幹線のようだ。

昔でいうと,「マッハ15のスピード」という感じ。

 

最後に,久保さんは,「丹下の場合『自由の国』と『必然性の国』の相互作用に関する見取り図は不明のままだった」という高津さんの言葉を引く。

久保さんは,この言葉をよく引く。

久保さんの中では,この「宿題」に,21世紀型生活体育論という旗印を掲げて,様々な問題意識と角度から答えていくことを目指すことになると述べている。

 

こうやって久保さんの論考を読むと,やっぱり高津さんの「自由の国と必然の国」の関係が久保さんのなかで引っかかっていて,そのことを中心に書いたことがよくわかるようになっている。

教科内容研究とか教育課程研究とか出てこないし。

 

僕が知りたいのは,学力論から実践論を経て,出原試案が出てくる連続と断絶に関わることなのに・・・。

僕はその時代は会員ではないので,わからないのだ。

今度訊いてみよう。

 

 

 

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