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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』 1.2月合併号 「運動文化論と私たち」を読む

『たのスポ』を読む 運動文化論

こんにちは。石田智巳です。

 

今日も,昨日に引き続いて,『たのしい体育・スポーツ』1.2月合併号を読みます。

今日は,横森さんの「かぜ」(「運動文化論と私たち」)を読みます。

では,どうぞ。

 

「かぜ」には,この号の編集の趣旨が書かれている。

横森さんは,60周年記念行事の中心人物として,まさに東奔西走してきた。

実は50周年記念の本,『体育実践とヒューマニズム』(創文企画)の編集委員長もされていた。

横森さんの情熱と仕事ぶりに敬意を表したい。

 

横森さんとは,ずいぶん前のことだが,常任委員会の後,新宿の天狗という居酒屋で隣の席になった。

そのときに,何の話をしていたのか忘れたが,映画の話になった。

土曜日は寅さんの日のことだったか。

まだ高倉健さんは存命だった。

 

話は「泣ける映画」になり,僕はその少し前に観た「幸せの黄色いハンカチ」だったかの話をした。*その後,健さんが亡くなったので,もう一度観たが。

これは,BSで夜中にやっていた。

そうしたら,横森さんも観ていたらしくて,話が盛り上がった。

この「黄色いハンカチ」と,もう一つ,「遙かなる山の呼び声」。

これも泣ける。

 

それで,永井さんもおられて,そのストーリーを僕が簡単に話をした。

健さんが,人をあやめることがあって,北海道に逃げてきて,母1人で経営する牧場に住み込みで手伝いをすることになった。

そうして,・・・・・,最後に警察につかまって,電車で網走に搬送されるのだが,電車でのシーンが泣かせる。

分かっていても泣かせる。

という話をした。

 

ハナ肇がいい味出すんですよね」なんていっていると,隣で横森さんが泣いている。

「虻田,虻田」といいながら。

僕はすっかり忘れていたが,ハナ肇の役名は「虻田」だそうだ。

という,横森さんである。

 

同志会愛をもった人だ。

最近優しくなった大貫さんの同志会愛もすごい。

で,その横森さんが「運動文化論」の像について書いている。

以下の6つの観点から語っている。

 

①「体育科教育の独自性を追求した理論」であり,目的を「運動文化の継承・発展と考えてきた」。

 

②スポーツや武道・舞踊,体操などの身体活動の総称であり,それは人間の歴史の中で作られてきた他の芸術・文化・科学などと並ぶ文化の一領域である。

体育という教科はこの運動文化という文化領域に対応した文化領域である。

 

③文化はその成立においてそれぞれの社会的背景を持つ(スポーツは資本主義の成立と深く関わる)。

そのため,疎外される要因を取り除き,真に大衆のための文化創造が考えられた。

その成果にドル平泳法の開発があった。

 

④また文化を与えてもらうだけでなく,主体的に活動にコミットできるようになる力をつけることが求められる。

それが,主体形成論(「スポーツ分野の主体形成」を体育科教育の目的とするといういい方がなされた)であり,体育の学力の根拠となる。

 

⑤この考えのベースには,戦争への反省と,憲法・47教育基本法が位置づいており,学校を社会との関係で捉える視点を持っている。

 

⑥「以上のような柱や方向が確認されたら,多くの人々の実践・研究によってその内実を豊かにしていくこと,究明していくことが継続的に求められている『論』である」。

 

さすが,横森さん。

広く捉えている。

 

かつて僕は,「体育同志会は技術指導の会でしょ」といわれたことがある。

そのときに,「そうだけど。そうか?」と思ったりした。

運動文化論という観点から見れば,技術指導の位置づけもわかりやすくなる。

*他人には運動文化論を出すと分かりにくくなると思うが。

 

あるいは,「国民運動文化の創造」(とそのための「体制の創造」)と考えれば,国民大衆がスポーツを我がものにするという視点が必要になる。

高度なスポーツは競技者に,大衆はそれなりのスポーツの楽しみ方でよいとは考えなかった。

 

「国民」といういい方が今の時代にマッチしているのかどうかなど,つねに時代制約性はつきまとう。

当時の理論と現在の状況の違いを考え,今の時代に合うように「運動文化論」の「内実を豊かにしていくこと,究明していくこと」が求められるわけだ。

 

理論と実践の関係については,次の伊藤高弘さんのいい方が僕は気に入っている。

「子どもの喜びは,教師の喜びそのものであり,子どものつまずきは,教師の無力の結果であると自覚し,その葛藤というか矛盾といおうか,その執拗な追求・克服の果てに,『運動文化論』が実体化してくるのである」。

伊藤高弘(1974)「学校体育研究同志会運動史論」,『運動文化論』(通称,赤本),3頁

 

論としての教育理念は,指針のようにはあるのだが,実は,実践研究の後で構築されるということだ。

 

今月は(来月も),運動文化論を考えることにしよう。

というか,『たのスポ』連載の「時代を拓く実践をたどる」の原稿で,「グループ学習-主体形成論-学力論-教科内容研究」へと進む研究系譜を易しく示す必要があるから,そこら辺の学習をしなければならないのだ。

 ちょうどいいね。

 

 

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