体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

中村敏雄「フラッグフットボールの教材価値」を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

先週は,『たのしい体育・スポーツ』2014年12月号の大後戸一樹論文を読みました。

フラッグフットボール(以下,フラフト)の実践で,子どもたちの中に起こる矛盾がいくつか書かれていました。

授業で起こりそうなことばかりです。

つまり,「ルール上問題ないとは言え,素直に納得できるわけでもない,そんな場面」(17頁)なのです。

 

これは,授業だけでなく,学校外のスポーツでも多く見られる場面ですが,それをどう解決するのかは,読み手に任せられたという感じでした。

今日は,そういった問題提起を割と早い時期に行った,故中村敏雄さんの小論を読みたいと思います。

では,どうぞ。

 

これから読む小論は,中村さんの「フラッグフットボールの教材価値」である。

これは,『たのしい体育・スポーツ』の1999年3月号に掲載されたものだ。

大後戸さんがフラッグフットボール(陣取りゲーム)で,低学年の子どもたちが,課題を突きつけてきたという実践は,『たのスポ』99年10月号に書かれている。

これは,5人のチームで3回のゲーム(3人制)をやれば,ゲームに出る延べ人数は9人。それで,5人だから,順番に回したとしても,1人は1回しか出ないことになる。

それなのに,あるチームは一人の子どもが3回ゲット(タッチダウン)する作戦を考えたというか,そうしようとした。

それに対して,文句が出たという。

 

また,今日は詳しくは述べないが,宮城の制野さんが,「フラッグフットボールは何を教える教材か?」という実践記録を残したのが,2000年の『運動文化研究』18号だ。

制野さんのその前の実践では,ゲーム中に一度もボールに触れなかった子どもの感想が出てきた。

それをもとに,ポジションが固定の方がいいか,均等に回す方がいいかを,子どもたちに考えさせていく。

 

1999年が,体育同志会の実践研究にとってどんな年だったかと云えば,年報的な性格を持つ『運動文化研究』を見ればよい。

それが,ちょうど制野さんの論文が載っている18号(2000年)だ。

 

この号を見ると,「今という時代の分析」,「体育科教育の基礎・基本をここにおく」という特集と,「学習の転換期を考える」という特集,そして,「長編実践記録」が載っている。

21世紀に向けて,「ゆとり」の学習指導要領が改訂(1998)されて,その検討(「今という時代」,「基礎・基本」)がなされている。

 

そして,実践を見ると,「水泳文化を総合的に学ぶ授業」(牧野満),「フラッグフットボール」(制野,先述),「競争研究を振り返って(丸太投げ)」(楠橋佐利,伊藤知加子)である。

楠橋さん達の「競争研究」が,ちょうど,今の『たのスポ』(2014年12月号)に載っているのであり,15年前のことになる。

 

体育同志会的には,今から見れば,この1999年は,教育課程研究の未明という感じであり,実践的には,教科内容研究という光が差していた時期に当たる。

 

で,中村さんの論文だ。

中村さんはまず,フラフトが行われることは喜ばしいことだとしながらも,「熟考の必要な問題」があるとする。

 

それは,スポーツにおける人間形成機能のことだ。

フラフトは,アメリカンフットボール(以下,アメフト)の簡易版である。つまり,アメリカのスポーツであり,「このスポーツがアメリカ人をよりアメリカ人らしく育て上げる高い機能を持っているということを意味して」いることになる。

そして,フラフトの指導は,「日本の子どもたちをアメリカ人らしく育てあげるかもしれないことがわかっていて」していることになる。

 

ふむふむ。

なるほど,剣道部員と野球部員では,人格形成的には,確かに違うといえるかもしれない。

でも,アメリカ人は悪いのか?

もちろん,中村さんは,たかだか授業で10時間ほど扱ったからといって,それがどうだという批判があることは承知でいっている。

 

そして,続けて3つのことを述べる。

①野球やバスケ,サッカーやラグビーによって形成される人間像を我我は普遍的なものとして,肯定的に受け止めて目標としてきた。これは,後発資本主義国としてはやむを得ないこと。

②しかし,普遍的と考えてきた人間が,世界のスポーツ界を「金まみれ」にしてきた現実があり,「われわれはそのような人間像に接合,類似していく人間形成機能をもつ教材を指導していてよいのかという問題が出現してくる」。むしろ,「これを批判する人間を育てなければならないのではないか」。

③かつて,『スポーツの風土』(大修館書店)において,「機能主義的人間」という見出しを掲げ,アメフトでは「人間の部品化」が顕著であることを指摘した。

 

機能主義や人間の部品化とは,攻撃のみ,防御のみ,足が速いから代走のように,得意分野を全体の一部の機能としてコマや歯車のように使用することをいう。

 

広大な国土と無尽蔵の資源,エクスパートネス(専門性)とディヴィジョニズム(分業制)の発達したアメリカでは生きていけるし,努力すればサクセス・ストーリーの主人公になれるということをこのスポーツは証明しようとしている」。

 

もしそうであれば,フラフトを指導している人たちは,「これをどのように処理,克服するのか,これのどこを,どのように変えて学ばせるのかをはっきりさせる必要があるのではなかろうか」。

 

最後の一段落は重要に思えるが敢えて割愛。

 

僕が和歌山にいったのが,2002年の秋だった。

『たのスポ』の購読もこのときからだ。

 

年が明けたころだと思うが,有田(ありだ,ミカンで有名)だったかで,フラフトの例会があった。

そのときに,宇田さんと原先生がなにやら神妙な面持ちでいて,二人して苦笑いしていた。

そして,ある手紙を渡してくれた。

それが,中村さんからの手紙で,読むとこの論文に書かれていることと,ほぼ同じ内容が書かれてあった。

和歌山支部のみんなは(新参者の僕も含めて),そのときそれに絶句していたということだ。

誰も返事がかけずに,結果として無視したことになる。

でも,しょうがなかったと思う。

 

今となってはわからないが,この論文には,大後戸さんも,制野さんも一瞥をくれていたと思う。

先に,1999年というのは,教科内容研究が行われていたと述べた。

これは,出原さんの提案であるが,もともとは,1970年代の中村さんの提案でもあった。

時期尚早で,70年代には現場はそうそうついて行けなかったように思うが,90年代にはこの提案に応えるような実践がいくつか出てきた。

提案に,みんなが追いついてきたのだ。

 

だから,制野実践や,『たのスポ』12月号の大後戸実践,さらには,2008年の西田実践などが出てくるようになる。

かなりチャレンジングな実践だ。

 

ところで,1999年は小渕首相の時代であり,小渕さん逝去のあと,失言の多い森首相,そして小泉さんが首相になる。

森さんは,ラグビーをやっていたそうだが,小泉さんになって,日本はアメリカの国益を最大限に配慮する形で,日本を解放した。

全面的な発達を目指す人もいる一方で,労働者が労働を切り売りする時代となってしまった。

 

安倍さんも対米従属なのだが,日本はアメリカの一機能となってしまったのは,やはりフラフト(のみならず,野球やバスケットボール)の影響なのだろうか。

だから,今は,武道をやって日本を取り戻さないといけないのか?

 

あれ,「日本を取り戻せ」っていうのは,対米従属の旗頭である安倍さんの言葉だったような。

 

 

 

 

 

 

 

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