体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』12月号-大後戸(おおせど)論文を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』2014年12月号の大後戸一樹論文を読みます。

この号は,「追い立てる『競争』と育てる『競争』」という特集です。

追い立てる競争というのは,よくないイメージで,これをいかに回避するのかという編集の意図が伝わってきます。

「本当にそうなのでしょうか」と大後戸さんは問いかけているように思えます。

では,どうぞ。

 

大後戸さんは,僕と同い年で,同じ年に同じ大学に入った。

そして,同じ体育を専攻したが,なぜか違う学部だった。

今は,2つの学部が1つになったが,大後戸さんはそこで先生をしている。

僕は,15年ぐらい前に,そこで助手をしていて,外に出た。

 

その大後戸さんは,「体育同志会でフラッグフットボールといえば大後戸」というぐらいに第一人者になりつつある。

この論文を読んでいたら,いろいろ考えることがあった。

考えはじめて,その蔓をたどっていくと,あちこちに行ってしまう恐れがあるので,とりあえず,今日は,ここに書かれていることを簡単に紹介したい。

そのうえで,まだまだ考えがわき出てくるようだったら,別の記事にしたいと思う。

 

大後戸さんは,附属小学校に長く勤務されていたので,教科担任として,同じ子どもたちを持ち上がる経験をした。

これは,研究という観点から見れば,かなりおいしいのだ。

同じ教師が,同じ子どもたちに,同じように指導して,その結果として学年によって違いが出るならば,それは純粋にとまではいかないが,割と高い透明度の「発達の違い」を取り出すことができる。

大後戸さんは,そういったデータをもとに研究を進めている。

 

で,フラッグフットボール(以下,フラフト)でも,そうやって持ち上がった6年生のめざす授業イメージが書かれている。

そこには,作戦立案やそれをもとにした練習を行うこと,状況に応じた攻撃や守備の選択とならんで,「極端なスポーツを学ぶことで,身近にあるスポーツへの思いや意見を持ってほしい」とある。

ここでいう極端なスポーツが,「究極のスポーツ」とも云われるアメリカンフットボールであり,子どもたちに取ってみれば,それをモディファイしたフラフトなのだ。

 

大後戸さんは,4年生まではQB輪番制でやるが,高学年ではポジションは自由にするという。

すると,あるとき球技が苦手な子どもが「(QBをする時の)あの緊張から逃げられる(からよかった)」といった。

この話は,特訓の末,できるようになって,「もう鉄棒をやらなくていいので嬉しい」といった子どもの話に似ている。

 

もともとアメフトのルールには,ポジションはローテーションとは書いていないのだ。

というか,そうでなくて,機能分担があるから究極のスポーツだと云われるのである。

つまり,個人が全体のコマのように動くことを,競技が要求しているのだ。

だから,学級のルールあるいは教師のルールによって,苦しむ子どもが出てきたというわけだ。

もちろん,ポジションを自由にしたからといって,すべての子どもが喜べるというわけではないが。

スポーツの嫌いな子だっているのだから。

だから,子どもたちの感想にも対立するスポーツ観が出てくる。

 

低学年でも,上手い子ばかりがゲット(タッチダウン)する作戦を作ったチームへ,均等にボールを持てる用にしたチームから批判が出てくることにもつながる。

また,ゲーム終了前のラストプレーで,引き分けの勝ち点1をゲットするために,わざとボールを地面に投げつけた4年生のチームがあったことも同じである。

 

「ルール上問題ないとは言え,素直に納得できるわけでもない,そんな場面ばかり」(17頁)なのだ。

「子どもたちに本音を言わせることができたのは確かです。本気だからこそ,『どっちでもいいじゃん』なんて発言はあまり出てきません。『逆だったら同じことをするかもしれない。でも・・・』とそれぞれが本音を持っているから,ぶつかることができます。本音のぶつかり合いが,おそらくその向こう側にある我がクラスでの妙案につながるのだと思います」。

 

大後戸さんにとって,フラッグフットボールは,やればやるほど,もめ事が起こりやすい=本音が出やすいスポーツとして,机の一番上の抽斗(ひきだし)におかれているのだと思う。

 

僕もフラフトを教えたことがあるが,いろいろな問題が起こった。

それに対して,道徳的に解決しようとするか,解決のしようがなくて,ただただ見ていたという経験もある。

自分が一緒に入ってやってみて,おとりなんかをやったときには,そこでのプレーが成功したのか,しなかったのかを見ることができずに,なんかもやもや観を持ったのも事実だ。

 

さて,この大後戸さんの論文を取り上げようと思ったのは,事例が面白く,「こうあるべきだ」という論になっていないところがよかったからだ。

それ以上に,論文の冒頭に書かれたスポーツにおける「ルール上問題ないとは言え,素直に納得できるわけでもない」事例をいろいろ思い出したこと,そして,大後戸さんが低学年のもめ事を書いていた1999年に,フラフトへの疑問が表明されていたことを思い出したからである。

 

それについてはまたの機会に書きたいと思う。

 

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