体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『体育科教育』12月号-小学校における体育の教科書の可能性・白旗論文を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は『体育科教育』という雑誌の,2014年12月号を読みます。

「小学校」における「体育の教科書」の可能性です。

これを読まないと,そろそろ次の号がやってくるので。

では,どうぞ。

 

『体育科教育』という雑誌は,毎月,月の中頃に届く。

いろいろな立場の書き手がいるところが,『たのしい体育・スポーツ』とは違う。

敢えて,対立する意見を載せているが,編集者がその価値判断をするのではなく,判断するのは読者というスタンスだ。

だから,僕も思うことはあっても,虚心坦懐に(なれたらいいなあと思って),読むことにしている。

 

今回は,「教科書の可能性」という行政が絡む(もちろんというのか,大修館「書店」も絡むであろう)内容である。

そのため,それを推進する立場の人や,実現するための手順を知っている人(内側を知っている人)が登場することになる。

そして,反対する人も登場する。

 

今回も,白旗さんという元教科調査官,今関さんという国研の研究員(部長),大貫耕一さんという元小学校の教諭で今大学の先生(体育同志会)が,意見を述べている。

そして,大学教師,校長,現場の教諭などが書いている。

ここには,愛知の堤吉郎さんもいる。

 ひとまず,最初にあげた3名の主張を見て見よう。

 

まずは,白旗和也さんの「教科書導入の可能性と制度上の課題」(10-13頁)だ。

 

白旗さんの問題意識ははっきりしている。

 教科書を導入したい理由は,ある種のルサンチマンからくる。

それは以下のようにして形成された。

指導要領が改訂されると,それに応じた教科書が作られることになる。

そのため,2008年の改訂のすぐ後に,教科書出版会社を対象にした指導要領の説明会が開催された。

しかし,小学校体育だけは教科書がなく,当時調査官だった白旗さんは,ひとりだけ教科書会社と打ち合わせることなく帰ることになった。

あたかも,体育は知とは無関係な教科であると思われているようだった。

 

さて,今の体育の指導要領は,「めあて学習からの脱却」である。

「めあて学習」が,「運動とは知と無縁な活動である」(10頁)というわけではないが,約30年続いた遊び論を中心とした理論が,現場で希釈されて「知とは無縁」な体育という認識を形成したと言っても云いすぎではないだろう。

 

90年代初めに,例えば出原泰明さんは,『体育の授業方法論』(大修館)において,できるだけの体育からの脱却を訴えていた。

当然,「できるだけ」の(あるいは,できることを目標とした)体育があったということである。

そこから,「わかる」こと,学習活動そのものを対象にするという学習集団論が展開される。

 

これは学会レベルでも,1970年代後半からの学力論議において,「わかる」ことがクローズアップされるようになる。

しかし,考えてみれば,「わかる」ことが重視されるのは,「わかる」ことが重視されない文脈があるからである。

1つが,それまでのまさに「知とは関係なく体を動かす」体育,「運動量や体力を問題にする」体育である。

そしてもう一つが「欲求充足」の体育である。

めあて学習には,それを上下から支えた人たちが多くいて,ある種の力を作り出したということだ。

 

で,白旗さんは,体育における「知」を教科書に求めることになる。

そう,白旗さんの当時の使命は,学習指導要領の内容を,隅々にまであまねく行き渡らせることである。

そこで,教科書を作るにはどうすればいいのかが語られている。

 

まず,「義務教育書学校教科用図書検定基準」から,可能性が探られる。

しかし,教科書審議会で体育の教科書の必要性を認めてもらう必要がある。

そのために,予算,エビデンス,体育の教科書の中味や性格の吟味,そして時期の学習指導要領改訂を睨んだタイミング(それは「今」)などが検討課題となる。

 

繰り返すが,白旗さんの教科調査官のときの使命は,指導要領を隅々まで行き渡らせることであった。

そのために,「教科書を手がかりに授業を行うことで,結果として学習指導要領に基づいている」(12頁)ことにしたいのだ。

そして,副教材ではなく,教科書であるメリットが語られる。

 

白旗さんは,行政資料も多数作成してきたという(同誌,3月号)。

それは教科書作成を睨んでのことだという。

 

しかしながら,最後に,教科書を導入するにせよ,「気を付けなければならないことも少なくない」と警鐘を鳴らす。

今の学習指導要領では,「教科の目標・内容は,文部科学省が明確に示すが,指導方法は教師が児童・生徒の実態に合わせて工夫すべきもの」としていたということだ。

つまり,「目の前の子どもたちに充実した授業を提供するために,教師は悩み,工夫を重ねるのであり,それこそが教師としての尊い営み」(13頁)である。

その通りだと思う。

 

しかし,「方法論に終始するのではなく,何を伝えたい(学ばせたい)のかを大切にしなければならない。そのため,教科書の導入によって画一的な指導法になってしまうことは避けなければならない。教科書を導入した上で多様な指導法が工夫できるようにすべきだろう」ともいう。

 

おそらく,それこそ虚心坦懐に読めば,ここに論点があるのだろうと思う。

僕は,「そのため,」以下は,「画一的な指導法になってしまうことは避けなければならない」ではなく,「画一的な内容になってしまうことは避けなければならない」と思うのだ。

 

白旗さんは,目標と内容は教師が決めるという指導要領に従うので,方法レベルにのみ自由を強調する。

僕はちょっと違うけど,それはおいておく。

 

以前にも書いた(学習指導要領の改訂が諮問されました )が,すでに新しい指導要領の改訂に向けて,大臣より諮問が行われた。

そこで,文科の幹部から以下のように語られたという。

「これまで学習指導要領の改定は学習内容の見直しが中心で,指導法にまで踏み込むのは『タブー』とされてきた。教師の自由度を奪いかねないからだ。『その意味では画期的な試みになる』」(毎日新聞2014年11月21日朝刊)。

 

指導法にも踏み込むことになるという。

だから,白旗さんが目標・内容は文科が決めるといっても,次の指導要領では方法にまで踏み込むといっているのだ。

これについても,「これまで通り」体育は埒外でいられるのだろうか。

教科書でなくて,タブレットとコンテンツとなるような気もするが。

 

 

 

 

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