体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』12月号を読む 全体的な感想と読み方について

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』2014年12月号の特集を読みます。

特集は「追い立てる『競争』と育てる『競争』」です。

今日は,特集全体をざっと読んでみて,思ったことについて書いてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

体育同志会は,「できる」ということと同時に,「わかる」ことを大切にしてきた。

「わかる」には,運動学習場面における自己観察情報と他者観察情報や,やり方に関する知識などが考えられる。

それと同時に,運動学習場面ではないが,運動やスポーツに関わる知識の内容が考えられる。

それを体育科の教科内容といったりするが,その1つが「競争」である。

 

競争はスポーツがスポーツであるために必要な,本質的な要素の1つである。

アレン・グッドマンは,他にも,スポーツの本質規定に,遊戯性や組織性(ルール),そして身体性をあげている。

もちろん,これはスポーツをプレイのみから捉えているのだが。

 

かつて,ネオ・マルクス主義者から,競争が諸悪の根源だとして,競争のないスポーツ=トロプスなるものが提唱された(トロプスはtropsのことであり,sportを右から書く)。

運動会でも,競争のない徒競走という語義矛盾がいわれたが,最近はあまり聞かない。

競争を抜いてしまったら面白くないのだろう。

 

編集の意図からすれば,前者は「悪い競争」で,後者は「よい競争」のようにもとれる。

だが,全体を読んでいくと,書き手によっては必ずしもそうでもないようだ。

 

最初に朝輝(あさひ)さんの「かぜ」がくる。

この組み立ても面白い。

リレーをやることで,子どもたちの能力観が変わった。

しかし,フラフトでは,うまくいかなかった。

それは「自分たちがうまくなったと思える『競争』の方法」が朝輝さんの中になかったからだという。

 

かつて大阪支部で,教科内容研究として「競争研究」が支部で取り組まれたのだが,この特集はそれがベースになっている。

その全体像は安武さんが示している。

ここに当時の支部研究の進め方が書かれているので,各支部の研究の参考になるのではないかと思う。

 

全体を俯瞰すると,最初に支部研究当時にはいなかった朝輝さんが書いているのは象徴的だ。

なぜ象徴的なのかは,安武さんの文章を読めばわかると思うのでここでは述べない。

そして,朝輝さんは,子どもたちが普段から「四六時中,競争に巻き込まれている」=分断されているが,競争のとらえ方によっては,「子どもたちがつながる競争が生まれるのではないか」と期待する。

ここは本当に重要だ。

 

社会において新自由主義的な競争と排除が瀰漫するなか,そのまんまの新自由主義競争に子どもを巻き込んでどうする?という問いかけ。

でも,違う競争のあり方もあるはず,という期待を持たせる。

 

そして,ページをめくる。

パサッ。

森敏生さんの論考「スポーツにおける競争の文化的特質」だ。

森さんは先月も書いていた。

先月の特集は,「子どもをつなぐ教材づくり」だ。

朝輝さんが言う「子どもをつなぐ競争」というのがありうるのか?

 

森さんは,先月号において,制野さんのフットボールの実践(のちに「お祭りフットボール」の実践構想へといたる)を評して,「近代スポーツを素材とした教材化では,子どもたちが『生きづらさ』を克服する学びの意味や手応えをつくり出せないのではないか」という問題意識があるのでは?という。

そして,(競争以外の価値の追求に)新たな教材づくりの可能性があると述べる。

やはり競争では,つながるのは難しいのか。

 

そして今月号で,森さんは,「スポーツに本来備わった内在的な競争と,社会の影響で生じてくる競争のあり方を区別する」という大阪支部研究の1つの到達点を参照する。

しかし,それがそう簡単なことではないから,「競争に対する肯定的な見解と否定的な見解が錯綜」していると述べる。

確かにそうだ。

 

「わたしたちは教育的問題意識から,ある競争を否定し,同時にあるべき競争を論じてしまいがちです。」

しかし,文化的特質としての競争を考えるならば,「こうしたわたしたちの競争に対する構えそのものを一旦保留する必要があります」と述べる。

 

実は特集では,森さん以外の筆者が,「保留」せずに教えることとの関わりで述べている。

それは,実践者として当たり前なのだが,森さんの構えは少し違う。

 

つまり,私達がスポーツを教えるのであれば,それ以前にというか,それと並行してでも,スポーツとは何かが明らかにされなければならないのである。

同様に,私達があるスポーツの技術を教えるのであれば,技術の全体像を明らかにする必要がある。

ルールを教えるのであれば,ルールの役割だとか,構造や機能だとかを明らかにする必要がある。

それは競争でも同じ。

 

森さんのこの発言は,実践家にケチをつけるのではなく,あくまでも「文化的特質としての競争」を考えるために,教えることと切りはなすと云っているのだ(と思う)。

実は,このような云い方は,草深さんがしょっちゅうしてきた。

「教科教育学者は,教えることばかり云うが,それ以前にスポーツの構造を明らかにしろ」と。

 

今日は,森さんの論考の中味には触れられていないが,これは読むべき論考だ。

頁は短いが,後代に残る論考になると思う。

それと,『運動文化研究』27号(2010)年の「運動文化における平等と自由への問いと探求」もあわせて読むと理解がより深くなると思う。

そして,理念型ではあるが,「つながる競争」の可能性が語られている。

この文章には是非格闘してほしい。

 

次に,牧野さん,船富さんと続く。

楠橋さんもふくめて,大阪支部の研究を受けていることがよくわかる。

それからすると,大後戸さん,杉村さん,成島さんの書きぶりは少し違う。

でも,違うからいい。

 

また,同じ大阪でも,片本さんの文章は,「教材紹介」となっているが,「グループづくり」であり,実践の入り口を考えるときに,参考になる。

合意を作るプロセスは難しいけど,その方法が具体的に書いてある。

安武さんの「競争研究」の論考は読み応えがあり,杉村さんが紹介している愛知の教科内容研究と重なる。

しかし,競争を扱うところがすごいと思う。

よく,空中分解しなかったと思う(したのかもしれないが)。

 

「かぜ」で,朝輝さんが「フラフト」でうまくいかなかったと述べていた。

大後戸さんも「フラフト」で起こった実践上の問題について紹介している。

最後の事例は,数年前にどっかの中学校のハンドボールの試合で,ここで負けると次の組み合わせが相性のいいところにあたるので,自分のチームのゴールにシュートをして負けたという事例と似ている。

オリンピックのバドミントンでもあったことだ。

それはフラフトという競技のルールからくるのか,勝ち上がりのルール(レギュレーション)からくるのか。

 

以上,ガイドになったかどうかはわからないが,ざっくりと全体を読んだ感想をのべてみました。

 個別の内容については,また触れるかどうか考えてみます。

 

 

 

 

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