体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

「鍋対決!」と体育同志会の技術指導

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,体育同志会の技術指導観について書いてみたいと思います。

ところが,これについて正確に伝えるのは難しく,しかもいろいろな考え方が出てきているので,それらをうまく伝えるのは難しいかもしれません。

だから,ひとまず,70年代の技術特質-基礎技術あたりに限った話をしてみたいと思います。

では,どうぞ。 

 

実は,先週のブログでは,『美味しんぼ』の「鍋対決!」の話を書いたのだが,体育同志会の技術指導はこれと似ているのかなと思ったのだ(技術指導の話2 あるいは,『美味しんぼ』の鍋対決  はてなブックマーク - 技術指導の話2 あるいは,『美味しんぼ』の鍋対決)。

それについて書いてみるが,こういうブログでは,なるべく話を単純化した方がいいと思う。

ただ,それだと体育同志会の技術指導の考え方が正確に伝わらないかもしれないので,内外からお叱りを受けそうで,なかなか難しい。

が,やってみることにする。 

 

体育同志会では,1957年頃から技術指導の研究を行うようになる。

技術指導というのは,教師の側が子どもに与えるようなイメージがある。

それは,子どもたちの自治的で自主的なグループ学習という枠組みとは,あわないことが懸念された。

だから,最初は,市販の指導書に書かれているような内容に,審判の仕方や,学習の仕方が書かれた指導資料(ソース・ボリウム)を与えて,これで計画や実施,総括をさせる指導を行っていた。

 

しかし,1960年になると,「子どもの喜びを高める技術の内容と方法」を考えるようになる。

スポーツをやる上で,運動技術の向上が人間的な喜びを高めると考えられたのだ。

そのときに,最初は,子どもは運動のどんな技術に興味を感じるのか,なにが子どもの喜びを高めるのか,ここを中心にして考えられた。

 

しかし,指導内容の研究を進めていくうちに,子どもの喜びを大切にしつつも,学習する運動文化の側に着目する。

つまり,その「運動文化の本質(特質)を形成する最小単位の技術」を考えるようになる。

主体(子ども)をにらみつつも,足場を客体(運動文化)の側へ移すのだ。

そのため,まず運動文化の特質を考える。

特質は,本質といってもよい。

他の領域や種目と違うもっとも面白い部分ではあるが,他の種目にはないその種目の技術的な特性である。

この場合,まず球技や器械運動,陸上運動という領域の特質を考える。

そこから,球技であれば,個々のバスケットボールやサッカー,バレーボールなどの特質を考える。

 

そして,この特質とは,1970年代では技術(的)特質に他ならなかった(もともとは技術特質といわれていたが,後に文化的特質に対応して,技術的特質ともいったりする)。

技術特質を問題にしたのは,繰り返すが,子どもの喜びを高めるのは,「技術的な向上」に求められたからだ。

で,個々の球技の場合,技術特質とは,ボール,ゴール,得点様式,ルールなどに規定されることになる。

そして,体育同志会の場合は,子どもの喜びを高めることも睨んでいたこともあり,得点にかかわるシュート,スパイクを含んだものとして考えられた。

よく,球技の基本はパスだとか,シュートだとかよく言われる。

でも,パスやシュートをそれぞれにやっても,ゲームに生きないとも言われる。

だからゲームという発展を見越して,「コンビネーションからのシュート(スパイク)」と規定した。

 

で,ここで特質やそれに基づく基礎技術というのは,球技に実体として存在するというよりは,ある考え方に基づいて認識されるというのか,切り取られるのだ。

バスケットボールを教えるのであれば,パスをやって,シュートをやって,ドリブルをやってとかがよくあるやり方だ。

そういう切り取り方もある。

でも,それは技術観が違うのである。

もちろん,時間が潤沢にあるのであれば,すべてを網羅的にやることもありだろう。

しかし,現実には,限られた時間や条件の中で行うのであり,ある技術指導観を採用せざるを得ない。

最初に,二人のコンビネーションからのシュートをやって,それが3人とか5人になっても,プレーの質が複雑になっても,二人のコンビからのシュートは変わらないと考え,そこを教えようとする。

 

で,『美味しんぼ』の鍋対決の話だ。

究極のメニューは,ある意味で子どもの喜びを高めるように,万人に受ける鍋を考えようとした。

人々の要求は様々なのだから,それをかなえようとすれば,食べる側が選べるようにするしかない。

だとすれば,面白さは人それぞれとなる。

一方の至高のメニューは,もてなす側が考え得る最高の選択をして,提供した。

 

体育の授業で考えてみれば,「究極」の考え方は,個に応じるという前の指導要領で行われていた多様な選択にあたると思う。

「至高」の考え方は,その種目を教えるときに,最も大切なことはこれだという体育同志会の思考に似ていると思う。

至高のメニューが勝ったから,それがいいといっているのではない。

言っているように映りますか?

 もちろん,体育同志会でも,指導の内容や方法は万能ではないので,実際には子どもたちの実態に応じて変化させる。

「二人のコンビネーションからのシュート」も,時代が下がれば「空間を支配する」「ディフェンスを破る」という目的的な規定も組み込まれるようになる。


教師が教えずに,グループで格闘させることもある。

 教師が教えたいと思っても,子どもたちが乗ってこない場合もある。

そういう苦労もしながらも,子どもたちをうまくする=技術獲得による喜びを大切にする。

できないのは,子どものせいではなく,教師の指導力の問題だと捉えてきたし,教材研究の不足だと考えてきた。

 

ところが,最近では,そういった技術特質-基礎技術-系統的な指導という枠組みは採用しつつも,基礎技術にあたる部分がこれまでとは違う提案がなされたりしている。

また,指導は技術特質をベースにしながらも,役割分担や勝敗やスポーツ観などを問うようなテーマ設定がなされた提案,あるいは,技術的特質そのものを問い直すような提案もなされてきている。

 

僕は,体育同志会が,もともと大切にしようとしてきたことが,会に集う若い人に,まずキチンと受け継がれる必要があると思ってしまうのだ。

基礎が学ばれれば,応用への道はつけやすいと思うが,応用から入ると「難しすぎる」となってしまうような気がする。

体育同志会の場合,基礎だって少し難しいのだから。


体育同志会の立場をキチンと説明せずに(そんなことが出来るの?),ちょっと簡単に書きすぎました。

また別の機会に70年代以降の議論についても書いてみたいと思います。 

 

 

 

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