技術指導について考える
こんにちは。石田智巳です。
今日は,運動技術の指導ということについて考えてみます。
というのも,少し前にFBのニュースフィードに,あるブログの記事が流れてきていろいろ考えたからです。
僕の「友達」のある人が「いいね」を押したものだと思います。
気になっていたのですが,書いた人の名前もわからず,ずいぶん下の方に埋もれてしまって,探すことができませんでした。
だから,うろ覚えな部分もありますが,読んで思ったことを書きたいと思います。
では,どうぞ。
ある方のブログを読んだ。
かなり長文だったのでざっと目で追っていった。
そして,気鬱になった。
話の全体像を浮かび上がらせることが難しいのだが,前半部分は有名な話なので書くことができる。
僕は,そのブログを書いた人よりも,その話を詳しく説明することができる(と思う)。
簡単な要約をしたい。
小学校のある子どもが,体育授業で鉄棒の技ができなかった。
担任の新採(ぐらいの若さ)の先生は,その子の親に話して,居残りで特訓をした。
そして,ある日,ついにできるようになったという。
そしたら,その子は,作文に,「できて嬉しかった。これで鉄棒をやらなくてもすむ」というようなことを書いた。
という話。
それで,このブログを書いた人は,「そんな指導でいいの?」ということを書いている。
もっとも,その人は,大学の講義でその話を聞いたという。
自分で見たわけではないようだ。
でも,「その子は二度と鉄棒はしなかった」だったかと書いていた(おそらく)。
実は,学会で僕もその話を聞いたことがある。
もしかしたら,ソースは同じ人かもしれない。
そして,その大学の先生は,「教えなくても,できるようにならなくても,楽しむことができる」と述べていた。
僕は,学会でその話を聞く前にも,その先生から,「体育授業で,なんで教えないといけないの?」っていわれてびっくりした。
あのときはまだ大学院生だったので,正直言って意味がわからなかった。
自分とは違う価値観があることを知った。
で,ブログのその方は,「だから,楽しさを教えることが大切」だと述べていた。
結局それか。
気鬱になるのには,いろいろ理由がある。
一つは,ものすごく特殊な事例を一般化しようとしているのではないかということ。
「できるようになって,鉄棒をやらなくてすむからよかった」と思う子どもがどれだけ多くいるのか。
つまり,暗黙のうちに,「世の中の誰もが,できるようになりたいわけではない」という話型を採用し,それを一般化しているということだ。
できるようになりたくて,親に教えてほしいという子もいる。
それもダメなことか?
さらには,「教師ができさせるようにすること」そのものが悪いことになるのではないか?
もう一つは,具体的な授業のイメージがわかないということである。
この話は,「すべての子どもの要求に寄り添うことが大切」というメッセージを送っていると思う。
それはそれでよく,その命題は否定されるべきではない。
そのことと,実際の授業ですべての子どもに寄り添って,要求実現をお手伝いするような実践をするということは,次元が違う。
ところで,そんな実践が果たして可能なのかどうか?
今,手元にないが,苅谷剛彦さんが東大にいたときに,『教育改革の幻想』(ちくま新書)という本を出した。
そこには,子ども中心主義(Child Centered Education)の陥穽のようなものが書かれていた。
「子どもの興味関心にあわせて教師は支援する」,「子どもは意欲的な存在だ」,「個性を大切にしないといけない」,などが当時いわれていた。
「すべての子どもの要求に寄り添うことが大切」も同じ。
誰もが否定しにくい美しい言葉だ。
しかし,この美しさやまぶしさが,かえって現状認識を甘くする。
「意欲も格差がある」のだ。
苅谷さんは,そんなことを書いていた。
そして,方法のレベルに落とすときに,どうすればいいのか困るのだ。
だから,授業でできない子どもがいたときに,教師はどうすべきなのか?
それは,子どもが決めることなのかどうか。
このブログの人は,「楽しむ」ことが優先されるべきだという。
しかし,それには「どうすればいいのか」が書かれていない。
あるいは,今できなくて,「できるようになりたい」と先生に云ってきた子どもがいたらどうするのだろう。
「できるようにする方法を持っているから,教えてできるようにする。」
「できるようにする方法を持っているけど,敢えて教えないで努力させる(友達に教えさせるとか,塾へ行けというのか)」。
でも,「できるようにする方法を持っていないから,教えられない」というのは,ちょっと違う。
この20年ぐらいの教育は,そうやっていつの間にか,新自由主義的,自己責任論的な教育観になってしまったように思う。
「できないのも個性だからいい」
「追い込んだら,子どもがかわいそう」
「できなくて,かわいそう」と思うのはいけないのか。
さて,僕は冒頭に,この話を「そのブログを書いた人よりも詳しく説明することができる」と書いた。
なぜなら,僕は,その先生を知っているからだ。
1977年ごろのこと,小学校5年生の鉄棒の課題は「足かけ後転」。
一人を除いて,全員ができるようになった。
ちょっと太めのU子ちゃんだけができなかった。
そして,特訓によってその子もできるようになった。
クラス全員ができるようになったのだ。
で,「もうこれで鉄棒をやらなくてすみます」という作文。
その先生は,若くて,いくばくかの指導技術と,それ以上の情熱を持って指導にあたっていたわけだ。
さて,その後,その先生はどうしたのか?
その若い先生は,職場の先輩に誘われて,体育同志会に入った。
そして,知っている人なら誰もが認める器械運動の授業の大家となった。
そう,これは,数年前に小学校教諭を定年退職した山内基広さんの話なのだ。
『たのしい体育・スポーツ』2011年2月号に書かれている。
つまり,山内先生は,できるようにしたことがダメだったとは思わず,情熱だけの指導ではダメだと思った(のだと思う)。
そして,もっと,一人ひとりにあったやり方の指導を研究しはじめたのだ。
時代が,1977年であり,教えることがはやっていたこともあるが,「できなくてもいい」とはいわなかった。
僕は,こちらの方がよほどシンプルな話でいいと思う。
ところで,そのFBの頁は「いいね」がえらい沢山ついていたような気がする。
いやはや参りました。
まぶしいですね。