体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

教育のつどい大阪2014の話2-川渕実践を聞く-

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,昨日に引き続き「教育のつどい大阪(大教組教研)」のレポートの話です。

今日は体育同志会の若手代表の川渕和美さんの実践です。

タイトルは,「うまくなっていたから ほんとによかった-はじめてのグループ学習」です。

『たのしい体育・スポーツ』11月号が届いたので,読んでいたら,最初の論考に川渕実践が引かれていました。

若いのにすごいですね。

では,どうぞ。

 

当初配られた川渕実践のタイトルは,「うまくなって ほんとに良かった」であった。

当初のタイトルは,「よかった」の主語が「子ども」でも「先生」でもよい。

おそらく「子ども」だけど。

でも,後のタイトル「うまくなっていたから ほんとによかった」だと,主語は子どもだ。

子どもが,自分ではわからないけど,みんなに「うまくなった」と云われたて「嬉しい」という感じか。

これが,もし「先生」が主語だとすると,先生がほったらかしにしておいて,帰ってきたら「みんながうまくなっていた」「ほっと胸をなで下ろした」と読める。

多分,読み過ぎなのだろうが。

 

最近,「学び合い」という云い方を良く耳にする。

「教え合い,学び合い」ではなく,「学び合い」である。

体育でも,某誌にそんな連載がある。

教えると云うことを否定的に捉えるわけだ。

「やらされた」「嫌な思いをした」。

で,学び合いだという。

連載は,まだまだ中味に触れないが,とにかく90年代以降に何処かで聞いたことがあるフレーズが多用される。

それならば,向山洋一さん(法則化運動(現TOSS)を起こした人)の書いているものを読む方がよっぽど新鮮だ。

教師は教えることのプロであるべきだ,とはっきり言うのだから。

 

川渕さんの実践のタイトルは,グループ学習で「うまくなった」ことを素直に喜んでいるのだ。

ということは,反転させれば,「このうまくなること」が実践のねらいになっているということ,そして,こういうタイトルがついているので,実践は成功したと云うことを物語っている。

 

実践の概要は以下の通り。

4年生の29名の子どもたちの実践。

自分たちではなかなか言い合うことができず,先生のお墨付きがほしい子ども。

ゲーム(遊び)で負けると泣いてしまう子ども。

教師に呼ばれると半泣きになる子ども。

「『よい子』たちの陰にひそんでいる『自信のなさ』という,大きなギャップを感じた」という。

 

こういう子どもたちに,4年生の最初だからこそ,体育でグループ学習によって,「みんなでうまくなる」「教え合ってうまくなる」ことで,自信をつけさせようとした。

なぜ器械運動か?

「見合うポイントがはっきりしやすく,うまくなる道筋がわかりやすい,そしてハードな関係性が求められないマット運動(側転学習)」ということだ。

この辺のストーリーがいいでしょ。

前にも川渕さんの実践を読んだことがあるが,ここら辺はややできすぎ。

 

そして,実践のねらいを3つに整理する。

①”学ぶ中味”を整理して見るポイントをしぼっていくことで,教え合いみんなでうまくなることを実感できるようにしていく。

②教え合う中で,技術ポイントをおさえてそれができるようなコツが見つけられれば,誰でもうまくなる道筋があることがわかるようにする。

③グループ学習を通して,できない子がうまくなるまでにどんな変化が起こっているのか?を探っていく。

 

ここもまたいい。

普通,実践のねらいというのは,その後に書かれる子どもたちに提示する目標(わかる,できる,分かち伝える)が書かれることが多い。

しかし,この3つは,子どもたちの目標ではなく,川渕さんが自らに課した課題なのだ。

大阪では,中川孝子さんが,「授業は課題があるからするものだ」といった。

それこそが研究なのである。

川渕さんも同様に,研究しているのだ。

①と②は,体育同志会で云われている授業スタイルの追試といえるだろう。

③こそ,子どもたちにとって初めてのグループ学習の実践で川渕さんが明らかにしたかったことなのだ(と思う)。

 

そして,子どもたちの目標が出てくる。

それが,①側転の技術ポイントを探して,できるためのコツが「わかる」こと。

②足が腰よりも上がり,まっすぐの側転が「できる」こと。

③グループ活動で技術的なポイントを観察,発見し,アドバイスするなど「分かち伝える」こと。

 

こうして,動物歩き,跳び箱を使った山歩き,ぞうさん,マットでのぞうさん,側転へとつないでいく。

ここら辺は,体育同志会でも研究成果が多様にあり,それをどのように組み合わせていくのか,何をねらいにして,どんな下位教材を配列するのかは,支部などで集団検討すると特徴が出てくると思う。

 

僕は,先週の授業でもやったが,立った状態から手を振り下ろすのが怖いという子がいると云うこともあるので,大股歩き前転を入れるようにしている。

ここでのポイントは,歩くときに目線を下げないこと,歩きながら前転(両足をそろえないで前転)すること,できれば,足よりも手をより前の方につくことである。

 

川渕実践のカリキュラムは16時間であり,その中に保護者も呼んだ発表会も1時間入っている。

体育同志会的な体育授業の特徴としては,最初と最後が教室で行われるところにある。

最初は教室でオリエンテーションであり,最後は感想(作文)を書いて,聞きあって,それについて思ったことを書く時間としている。

 

このオリエンテーションというのは,すごく大切で,こちらにやりたいことがあるにせよ,子どもたちの過去のマット運動の経験や,子どもによって,あるいは教師と子どもによって,目指したいことのズレなどが確認される。

それをいかにみんなのものにして,このクラスの目標を作っていくのか,そのためにどうやって子どもの意見を拾っていくのか,ここを丁寧にやるのだ。

 

川渕さんも,マットが嫌い(6人),普通(18人)という子どもの示す事実をみんなで確かめ,目標を作っていっている。

先述した「学び合い」を推奨する人たちには,学び合えるように教師が何を指導するのか,現実にはやりたくない子,嫌いな子たちをどう巻き込むのかというテクニカルな部分を語ってほしいと思ってしまう。

目標が「学び合い」でもいいけど,技能形成もするのだから。

 

川渕実践の,1時間1時間の授業の中味や,子どもたちのグループワークの様子は,ここでは伝えない。

川渕さんは,グループ学習分科会で活動し,大阪のGGP(グループ学習プロジェクト)で鍛えられているだけあって,グループの質の変化を捉えようとしている。

そのことについて少しだけ紹介したい。

 

8時間目に,あるグループの子どもの感想に「足をのばす」ことが書かれた。

ただし,単に伸ばすのではなく,「足を伸ばすにはつま先を天井に向けたらしっかり足がのびる」という記述となっていた。

このことを他の子どもたちに紹介すると,子どもたちの記述が,技術ポイントから,教え合いのための言葉に少しずつ変化してきたという。

川渕さんは,こういう変化を捉えることができる。

なぜか?

 

大阪のGGPでは,グループの質的な変化を捉えるために,MRIなるものを使っている。

これを川渕さんも取り入れているのだ。

体育同志会では,球技のゲームスコアとして,心電図というものを用いることがある。

これは,ABCの3人がゲームをするとして,スコアに3人の名前を縦に書き,AからBにパスとなったら,A―Bと線を引き,BがドリブルでCへパスしたら,A―B~~~Cとして,Cがシュートを決めたら,A―B~~~Cシュート○(シュート○ではなく,○の中にSとかの記号を使う)。

 

これの応用で,CTをとばして,MRIなのである。

MRIはゲームのスコア表ではなく,グループ学習のスコア表のようなものである。

これは左から,時間,学習内容,グループのわかったこと・個人のわかったこと,グループに関わる言動や気になる子どもへの言動,教師の働きかけ,集団の変化の枠を作り,時間ごとに書き込んでいき,グループの変化を捉えようとする。

先の子どもの感想が変化してきたのも,教師の働きかけがあったからだ。

 

こういう分析装置を現場の教師が作り出して,自分の授業を分析するために使っている。

これは尊いと思う。

川渕さんもその枠組で,自分の子どもたちの変化を捉えようとする。

 

そして,最初に示した授業のねらいの③の「グループ学習を通して,できない子がうまくなるまでにどんな変化が起こっているのか?を探っていく」というのは,主観的に見るのではなく,まさにMRIを作ってその変化を見ていくのである。

そうすると,あるグループは抜群にうまい子がいて,その子に引っ張られるようにみんなが教え合ってうまくなるという形のグループ学習であることがわかった。

 

また,別の気になる子どもがいるグループでは,リーダーの子どもがその気になる子どもを教えようとしているが,なかなかうまくいかない。

先生にヘルプを求めることもあった。

しかし,そのときに(なぜかはわからないが),グループの他の子どもたちがその子に関わり始めて,教え合いの質が変化していく。

そうして,みんながうまくなっていった。

 

二つのグループでの学習の進行具合は違う。

しかし,学習の質的な変化が訪れると,できばえの変化も起こる。

 

体育同志会は面倒なことをやっているね,といわれそうだ。

確かに面倒なことかもしれない。

生活綴方教師が,子どもたちをつなげるためにしてきたことも同じかもしれない。

しかし,そうやってやることでしか見えてこないこともあるし,それが教師としての力量を高めることであるという確信がどこかにあるからできる。

若い先生は,若いうちに,授業のことで苦労しておいてほしい。

もう少し年がいくと,自分の授業のことだけを気にしていればよいと云うものではなくなるのだから。

今,テキトーに授業をやってそれなりにうまくいったと思っていると,成長は少ないと思う。

 

川渕さんは気になる書き方を他にもしていて,ここでも取り上げたいのだが,紙幅が尽きたのでここで打ち止め。

 

来年の全国教研で,さらにブラッシュアップされた報告を聞いてください。

 

 

 

 

 

 

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