体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

教職ゼミ2014後期-ゆとり教育について

こんにちは。石田智巳です。

 

今週の学校教育演習では,学生がゆとり教育について調べてみてくれました。

そのことで考えたことを書きたいと思います。

ゆとり教育の話ではなくなるような気がしますが。

では,どうぞ。

 

ゆとり教育を調べたいという3回生の学生は,自分たちがゆとり教育の世代だったからだという。

動機は単純である。

しばしばゆとり教育は失敗したとされる。

 

その理念と近しいところに楽しい体育もあったが,それも故高橋健夫さんは,失敗に終わったと述べた。

高橋さんは,楽しい体育のころに採用された学習方式である「めあて学習」が,今持っている力で楽しむ(めあて1)と,工夫したり,できそうな技に挑戦する(めあて2)とからなるが,めあて1にとどまる子どもが多かったこと,そして,生涯スポーツを念頭に置いていたにもかからわず,部活動への参加などが減ったことを上げている。

それは,体力の低下ともかかわっている。

でも,やはり二極化といったほうがいいのだろう。

 

さて,ゆとり教育を報告した学生さん達がえらいなあと思ったのは,イデオロギー的な批判ではなく(そんなことはまだできないかもしれないが),とりあえずどうして「ゆとり」になったのかを歴史的な観点で調べてくれた。

そのうえで,「次回は賛否の意見についてまとめ」ていくという。

僕なんかは,斎藤貴男さんの『機会不平等』を読んで,妙に腹立たしかったことを覚えている。

 

学生がやるこういう作業はつらいだろうな。

自分たちが受けてきた教育はよくなかったから,何がよくなかったのかを探るというわけだから。

でも,考えてみれば,日本の教育が素晴らしいと日本人が思ったことってあるのだろうか?

自虐的というわけではないが,詰め込みによる落ちこぼれ(落ちこぼし),校内暴力,いじめなど,いつも何かが問題とされていた。

一方で日本の教育の良さを,諸外国が学んで取り入れたりしていたし,国際的な学力の調査でも日本はトップクラスにいた。

 

にもかかわらず,教育改革は常に叫ばれている。

そして,詰め込みからゆとりへ,ゆとりから学力へと大きく舵を切る。

そして,道徳は教科。

小学校英語もやる。

改革するのは誰なのだろう。

現場のことは全く考えていない。

子どものことも考えていない。

 

かつて,苅谷武彦さんは「ポジティブリスト」という言い方をした。

要するに,子どもに習い事をさせる親の気持ちと同じで,ピアノ,書道,ソロバン,サッカー,そして塾などをやらせさえすれば,子どもはどれもこれも身につけると考える。

あるいは,すべて身につけなくても,何かは得意になってくれるだろう,あるいは好きになってくれるだろうと期待する。

でも,残念ながら,多くの場合,どれもあまり身につかずに終わる。

1つでも身につけばラッキーぐらいでいいわけなんだけど。

 

これと同じで,学校でやる中味を増やしたら,教師も新しいことをやらないといけないし,子どももやるべきことが増えるのだ。

そして,やれば何かが身につくという短絡的な思考が為政者には蔓延している。

教師にも,子どもにも,単に負担が増えるだけのような気がする。

増やしたら,その分減らすという発想はない。

 

以前にも書いたが,戦後,教えることに飢えていた教師たちは,徹底して教育技術や指導方法を学んだ。

歌を歌わせることから,掲示の仕方まで,多くの教える技術を身につけてきた。

しかし,90年代以降の「教えから学びへ」「指導から支援へ」というスローガンは,そういう教師たちへ退場するように告げたのだ。

それが日本人にあった教育方法ではなかったのか。

それでうまくいっていたのではなかったか。

 

さんざん教えてはいけないと云っていたにもかかわらず,今は指導が求められている。

でも,当時の人たちはほとんどいない。

今は,かつての流れを継承する研究会で学ぶ人たちに残っているという程度か。

 

僕はおそらく一生忘れられないことだけど,10年以上前に,夏休みにある講習会の講師をやることになった。

ちょうど,前の指導要領が始まった2003年秋の話だ。

その講習会では,最初に「体育の目標について考える」ことをやった。

そうしたら,ある小学校の先生が,「体育の目標は指導要領に書かれています」とおっしゃった。

 

「心と体を一体として捉え・・・・」。

確かに書いてある。

しかし,そのときに問題にしようとしたのは,あの文章は非常に悪い文章で,読んだからといって授業でどうすればよいかは書かれていない。

つまり,目標が構造化されていないのだ。

 

それと,めあて学習がよくないと思ったのだ(思ったのはもっと後だが)。

多様な体育観があるのはいいが,めあて学習は,自己選択,自己決定で結果もまた自己責任という新自由主義的学習観だからだ。

教師が教えてもなかなかうまくならないのに,子どもだけでほったらかしにして,うまくなるわけがない。

でも,うまくならなくても楽しめるという。

子どもたちは必ずしもうまくなりたいわけではないともいう。

そうか?

 

講習では,実技でマット運動の系統指導と,集団マットのさわりをやってみたが,その先生は頭が痛いということで参加しなかった。

そして,たまたまであったが,その先生の学校は体育の研究校であり,僕はその学校に見に行ったことがあるのだ。

そのときの様子を,「たのしい体育・スポーツ」2011年7.8月合併号に書いたことがある。

そこには書かなかったが,その先生の「めあて学習」の授業についての疑問を当時の院生から聞かされていた。

その院生は,そのときの講習会にも出ていたのである。

 

めあて学習を推進する立場の人たちがいて,そうでない人たちもいる。

今回,指導要領が大きく変わったわけだが,めあて学習の推進派の人たちは,それなりに新たな理念を加えて続けている。

しかし,その体育の研究校の研究はどうなるのだろう。

そして,自分たちは研究指定を受けて,成果を出していた(といっている)にもかかわらず,教える体育をやらないといけないわけで,そのことをどう思っているのだろう。

 

彼らは体育の理念が変わっても,おそらく,それで一生懸命やるのだろう。

理念は変わっても,上から与えられた理念をうやうやしく受け取るという態度は変わらないだろうから。

 

だからこそ,めあて学習でも,ゆとり教育でもいいが,失敗に終わった点を総括すべきなのだ。

失敗に終わったのは,理念が間違っていたのか,理念に対するアプローチが間違っていたのか。

そのうえで,学生には我々が忘れないように,ゆとり教育の成果で継承すべき点を示してほしい。

彼らの研究に期待したい。

 

 

 

 

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